浅草紅団・浅草祭 の商品レビュー
モダンな都市の雰囲気…
モダンな都市の雰囲気が濃厚な作品集。『雪国』や『伊豆の踊り子』とは違った魅力がありました。
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関東大震災の後の東京…
関東大震災の後の東京を描いたモダン小説。夢野久作のルポにも通じる貴重な記録。
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「浅草紅団」は1930(昭和5)年、その続編「浅草祭」は1934(昭和9)年の作品。 浅草界隈の「不良」少年少女らのなかに作者自身らしい「私」が潜入し、その生活実態をルポルタージュする、という作品で、どうも他の川端作品とは趣が異なり、しっくりこなかった。 興味の対象である「他...
「浅草紅団」は1930(昭和5)年、その続編「浅草祭」は1934(昭和9)年の作品。 浅草界隈の「不良」少年少女らのなかに作者自身らしい「私」が潜入し、その生活実態をルポルタージュする、という作品で、どうも他の川端作品とは趣が異なり、しっくりこなかった。 興味の対象である「他者たち」を描いているわけだが、その辺が、いつもあぶりだされる「私の孤独感」に結び付かなくて、異色な感じがしたのだろう。 初期作品で、「伊豆の踊子」と「雪国」のあいだに位置するものだが、どうも川端康成の本来のトーンと隔たり、多様性の観点から言えば興味深いのかもしれないが、私には馴染みがたいように思われた。 ところどころにある清新な表現は、さすがである。
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(以下引用) 昭和はじめの浅草を舞台にした川端康成の都市小説。 不良集団「浅草紅団」の女首領・弓子に案内されつつ、“私”は浅草の路地に生きる人々の歓び哀感を探訪する。 カジノ・フォウリイの出し物と踊子達。浮浪者と娼婦。関東大震災以降の変貌する都会風俗と、昭和恐慌の影さす終末的な不安と喧騒の世情をルポタージュ風に描出した昭和モダニズム文学の名篇。 続篇「浅草祭」併録。 (引用以上) 2012年11月に高原英理「少女領域」で知って早速買ったが冒頭部で挫折していたのを、ようやく読んだ。 私的に行っている川端康成マラソンの中間地点に設定していたのだった。 10年前は徒手空拳で立ち向かい負けたのだが、今回はバリバリにネットの力を駆使してなんとか通読できた。 というのもこの小説、索漠・雑然・時系列もバラバラ、筋があるんだかないんだか、そもそも小説なんだかルポルタージュなんだか判然としない。 これは読み手の頭の悪さもあるだろうけれど、 第一に、30歳で尖がりに尖がったモダニストBATA BOYの、ただのルポでなく娯楽小説でもない、シュルレアリスティックに現状を書き残しちゃうぞ、という意気込みがある。 第二に、描かれているのは90年前のナウなのだ。これはもはや半・異文化、半・外国、半・異世界といっていいだろう。 そしてBATAは飽きっぽい。中断する。その上、中断さえも作品に織り込む。 その事情としては、たった数年で変転し瓦解する街や文化、ということなんだろう。 当時のBATAにとってもミズモノ、ナマモノ、移り変わりゆく姿から直近に想像される瓦解の予感が美しいからこそ、実際に崩れ去った都市像には興味を失う、どころか、崩れ去る直前で見切りをつけたのだろう。 バッツリと興味を失ったのもむべなるかな。 BATA a man of thirty は、作中に現出させた弓子というチョー魅力的な少女(≒少年)が、汚穢にまみれるすんでのところで、姿を消させた。 「浅草紅団」の半分あたりで、風のように消失させ、続編「浅草祭」は正直なんで書いたんだかわからない意気の上がらない筆で、そもそも弓子は消えたまま。 それでよかったのだ。浅草祭が続編執筆の契機になったとはいえ、すでに「祭りの後」だった。 浅草の now を描くことが主目的で、人物は道具に過ぎなかったのに、あまりにも魅力的な人物を創設してしまったために、風とか気配とか匂いとかでしか存続させられなかったんだろう。 高原英理いわく、 《断片としてだけ生きること。そのために弓子の変装はある。/弓子の望む先にあるのは何か?/おそらくそれが、自由の極みとしての少女型意識体の可能性を殺さないことである。/弓子にとって、そのときそのときに役割を選択し、常に交換可能のものとすることが、どこにも属さない少女型意識を保持して生き延びる術なのだ》 連想。 ・江戸川乱歩の浅草趣味。 ・西東三鬼「神戸」(舞台も時代も違うけど)。 ・もちろん稲垣足穂のトア・ロードなど。 ・そして龍胆寺雄。代作疑惑をかけてきた龍胆寺雄に圧力をかけていたらしいが。 ・津原泰水は「瑠璃玉の耳輪」で本作を参考にしたんだとか。 ・いい記事を二つ。 https://note.com/buleyuki/n/neadced3a0461 http://hurec.bz/mt/archives/2010/08/1372_199612_193012.html
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昭和初期の浅草を舞台にした川端康成の小説であるが、物語はあってないようなもので、どちらかというとエッセイやルポルタージュに近い。わたし個人としてはあまり好きな作風ではなかった。わたし自身は浅草については毎年初詣に行くなど馴染があり、また昔の風俗を知ることにもわりと関心があるほうで、広瀬正『マイナス・ゼロ』などは生涯ベスト10に入るほど好きなのだが、本作はダメだった。作中に登場する当時の露店の様子、現在でいうところのいわゆるホームレスの様子など、そういう描写については興味深く読んだ。ただ、これはただの観光案内でも旅行記でもなく、あくまでも小説である。その点を綜合的に踏まえると、やはり本作はどっちつかずでとっ散らかっているというか、どうにもスッキリしない印象を受ける。せめて弓子が一貫して登場しその部分の物語だけでも完結させていれば、また評価は違ったものになっていただろう。
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関東大震災後の昭和初期、インチキ・レビューが活動し、浮浪者と娼婦が蠢く独特のエネルギーに満ちた都市浅草を描いた「浅草紅団」。そしてその六年後を書いた「浅草祭」。 同じ時期の東京を舞台にした都市小説に、久生十蘭の「魔都」がありますが、あちらは『帝都』を舞台にミステリタッチで当時の...
関東大震災後の昭和初期、インチキ・レビューが活動し、浮浪者と娼婦が蠢く独特のエネルギーに満ちた都市浅草を描いた「浅草紅団」。そしてその六年後を書いた「浅草祭」。 同じ時期の東京を舞台にした都市小説に、久生十蘭の「魔都」がありますが、あちらは『帝都』を舞台にミステリタッチで当時の東京を描いた印象ですが、川端のこれら2作品は、紅団という虚構の不良集団を狂言回しに使うことで、猥雑で怪しい浅草という街を描いた感じですね。 今読むと、もう無くなってしまった風景の描写が多く「当時はこうだったんだなあ」と想像するしかないのがもどかしいところもありますが、都市小説かつ群像劇として楽しめました。 解説にあった、「私」はあくまで浅草にとっては外部から来た「お客様(散歩者・旅行者)」でしかない、というところは興味深かったです。(伊豆の踊子しかり……)
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[ 内容 ] 昭和はじめの浅草を舞台にした川端康成の都市小説。 不良集団「浅草紅団」の女首領・弓子に案内されつつ、“私”は浅草の路地に生きる人々の歓び哀感を探訪する。 カジノ・フォウリイの出し物と踊子達。 浮浪者と娼婦。 関東大震災以降の変貌する都会風俗と、昭和恐慌の影さす終末的な不安と喧騒の世情をルポルタージュ風に描出した昭和モダニズム文学の名篇。 続篇「浅草祭」併録。 [ 目次 ] [ 問題提起 ] [ 結論 ] [ コメント ] [ 読了した日 ]
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川端は、自らの調査と考現学の知識、浅草寺縁起や、当時の浅草に関する見聞をもとに、『浅草紅団』を構成した。 そのため、一見すると当時の風俗描写がやたらと目立ち、しかもそれが虚構なのか事実なのか判然としない点も多い。 メタフィクション的な語りや、ルポルタージュ的な手法を取り入れた...
川端は、自らの調査と考現学の知識、浅草寺縁起や、当時の浅草に関する見聞をもとに、『浅草紅団』を構成した。 そのため、一見すると当時の風俗描写がやたらと目立ち、しかもそれが虚構なのか事実なのか判然としない点も多い。 メタフィクション的な語りや、ルポルタージュ的な手法を取り入れた実験的な要素も多い作品で、読んでいて飽きてしまう節もあるが、弓子の闊達さとそれが小説を駆動していく様子は、なかなか爽快なものであった。
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最近スカイツリーの開業で浅草も賑わってきてるのでしょうか。 川端康成の浅草モノです。 下町というと、どうしても暖かい雰囲気、と思ってしまいますが、 この本に出てくる下町は、一味違います。 作中に、川端康成本人とおぼしき人物が出てきます。 弓子、あなたは何処へ?
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とってもつまらなかったし、読んでいて悲しくなることたくさんだった。 戦中の浅草の様子がよく分かる作品だけど、ストーリーはほとんどないに等しい。 でも浅草の観光案内だと思って読めばいいのかも。
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