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じぶん・この不思議な存在 の商品レビュー

3.6

83件のお客様レビュー

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2024/07/14

古代ギリシャ、ソクラテスの時代には存在していた、「『わたし』とは何か」という問いに、易しい言葉で切り込んでいく、哲学的思考の入門書。 「わたしたちは普通、成長するということは様々の属性を身につけていくことと考えているが、ほうとうは逆で、年とともにわたしたちはいろいろな可能性をう...

古代ギリシャ、ソクラテスの時代には存在していた、「『わたし』とは何か」という問いに、易しい言葉で切り込んでいく、哲学的思考の入門書。 「わたしたちは普通、成長するということは様々の属性を身につけていくことと考えているが、ほうとうは逆で、年とともにわたしたちはいろいろな可能性をうしなっていくのではないだろうか」とは、宮崎駿先生も言っていた。 「わたしがだれであるかということは、わたしがだれでないかということ、つまりだれをじぶんとは異なるもの(他者)とみなしているかということと、背中合わせになっている」とは、ソシュール先生の一般言語学講義に似ている。 「『自分らしさ』などというものを求めてみんなはじぶんの中を探し回るのだが、実際わたしたちの内部にそんなものがあるはずがない。」とは、内田樹先生も言っていた。 色々な本の中で繰り返し語られることによって、これらの考え方に対しては、ずいぶん慣れてきた。そして、鷲田先生の言葉は平明で、それらの考え方を振り返るのにちょうど良かった。 私にとっての「自分」とは、「他者の他者」としてしか認識できないのであるから、その答えは、他者との関わりの中にしか見えてこない。自分の他者性を理解してれる他者を見つけて、そのような複数の他者との関わりによって、「自分」の輪郭はぼんやりと見えてくるのかもしれない。 ところで、僕はそんなに、自分を知りたいと思っているのだろうか。 こんなおぞましい者の輪郭を、そんなにくっきり見たいとは思わない。

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2023/10/15

自分って細かいこと気にしすぎなのかな?と自分の性格に悩んで買った本。「だれかのためにお茶をいれる」ただそのことが、これほど難しいこととは思わなかった。無理せず自分らしくあることは素敵なことだけど、それを追求しすぎて辛くならないようにしたい。

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2023/09/24

言われてみれば、体の内部で何が起こってるかわからないし、自分の背中なんて見たことないし、自分のことって思ったよりも分からないものだなと思った。

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2023/07/06

自意識についての考察は古今東西、多くのものがある。本書も同じ。ただ現代の大学生あたりの境遇に則して平たく解説されている。 筆者の感覚、感情が突飛な感じで次々に記載されており、読みにくいし、余計ではないか。 新たに得るところなし。 読了25分

Posted byブクログ

2024/06/21

自分探しといった簡単な話ではない。自分という存在、自分という何かの定義を考える事になる。人は誰しも自分て何者なんだろう、自分は必要なんだろうか、自分の存在価値について考えてしまう時がある。大体は仕事やプライベートで心配事ができた時にそういった感情に苛まれる。また、おかしな夢を見た...

自分探しといった簡単な話ではない。自分という存在、自分という何かの定義を考える事になる。人は誰しも自分て何者なんだろう、自分は必要なんだろうか、自分の存在価値について考えてしまう時がある。大体は仕事やプライベートで心配事ができた時にそういった感情に苛まれる。また、おかしな夢を見た朝も同様だ。夢の中では少なくとも自分の記憶のない場所でほとんど話したことの無いような学生時代のクラスメートや仕事で関わった人が現れて一緒に過ごしていたりする。一体全体何故?という不思議な気持ちがその日1日を支配する。 そうした時に他人と自分の関係性について暫く考え込むし、そもそも自分が何かについて考え始めてしまうのだ。答えは簡単。自分にも自分はわからないくらいだからハッキリとした答えは無いという事だ。 本書はこの自分という謎について他者との関係性によって成り立つ存在として捉える。他者から自分がどのように見られているか、例えば頭のいい人、スポーツができる人、読書が趣味、優しいなどの内面的なものといった属性的なもので形造られているものとする見方。また外見的な見映えや男性女性といった人としての形などもそうだろう。それらに程度の差こそあれ、他人と自分のを比べた際に出る差異が自分であると言える。あくまで他人の他人(他人からすれば自分は他人)として存在する実体である。自分が如何に内面的にどの様な存在として考えてもはっきりとした輪郭が見えないのは、この他者から見た自分が人それぞれに違ってくるし、自分の考えとも異なるからである。悪い印象なら自分で改善しようとするし、良い面ならもっとその様な人物像に近づこうとするから(これがよく言う自分探しの一つではなかろうか)、それにより輪郭がより鮮明になると共に自分の認識へと逆流する様に思える。 厄介なのは他人が感じた自分の印象が自分のそれとは異なるケースだ。好きでも無い他人から「(自分がその他人を)好きな事を知ってる」と言われたケースを用いて分かりやすく説明するが、このギャップは結末としては悲惨な状況を生み出す危険性を孕む。こういったケースでは激しく自分の自分に対する認識との差異が発生する一方で、自分の確固たる考え(相手を好きで無い)が自分を形造るのに役立つこともあるだろう。いずれにしても他者からの問いかけに対する自分の形である事には変わりない。 中々自分という存在ははっきり見えないのだが、間違いないのは外見だけ、性別だけ、テストの点だけでは語れない自分がいるのは間違いないし、例え人からどの様に思われても、自分の中に本当の自分はいる事には違いない。結論からすれば他人にも自分にもたどり着けない永遠の謎なのである。 本書読了時には漫然としない気持ちの一方で、よくわからないなら、楽しく生きればいいか、といった何か開放感に近い感覚で心がフッと軽くなることができる。

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2023/04/01

人は関わりの中でしかじぶんが分からない。人は人生のストーリーを考えては壊すことを繰り返すのだから、予想外は当然ある。このストーリーを語るには相手と文脈を共有している必要がある。

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2022/11/23

今の自分には難しかった。 他者の他者として自分は存在する。自分で自分をみることは一生できない。他者の中に自分がいないことが、一番苦しい。

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2024/05/13

1996年に発行されたこの本は、発行以来、版を重ねています。そして、大学入試問題にも何度も繰り返し出題されています。受験勉強に即効性のある読書(という表現そのものがそもそも矛盾していると思いますが)を求める人は、すぐにでも読むべき一冊です。著者の鷲田清一は、大阪大学総長も務めた哲...

1996年に発行されたこの本は、発行以来、版を重ねています。そして、大学入試問題にも何度も繰り返し出題されています。受験勉強に即効性のある読書(という表現そのものがそもそも矛盾していると思いますが)を求める人は、すぐにでも読むべき一冊です。著者の鷲田清一は、大阪大学総長も務めた哲学者。現在も多くの著作を発表しています。 「私とは誰だろう」―― このような問いを耳にすると、哲学好きでもない限り、そんな考えても仕方がないことをよく考えるな、といった反応をする人が多い気がします。しかし、そういう人も、人生のさまざまな局面で、じぶんとは何かをじぶんに問うています。恋愛で、進学で、就職で、そして家族のあり方、そして人生のフィナーレで。ひとは、じぶんとは何かを問わずには生きていけない生き物ではないでしょうか。 じぶんという存在が、じぶんだけで成り立っているのではなく、他者によって成り立つものであることを知るならば、人生はより生き易くもなるかもしれません。じぶんという存在を頑なに保持しようとするよりも、変化するじぶん、変わり得るじぶんをいつも想定し、他者と関わる方が、むしろじぶんらしく生きることであるという逆説、そしてそのことこそが、倫理的な存在としての人間のあり方なのだということを、高校生の時期に本書で理解するなら、この本を読んだ意義は計り知れません。この本から、長く残る衝撃を受けてほしいと思います。(K) 紫雲国語塾通信〈紫のゆかり〉2010年11月号掲載

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2022/09/21

゛自他は相互補完的である゛ 相互補完的とはお互いに足りないところや弱いところを補って、助け合うこと。 つまり、自己と他者は切り取っても切り離せぬ関係であると。その存在が持つ意味とは。 色々と考えさせられた。

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2022/05/17

前半では、「自分」は他人と関わって何らかの役割を持ち、「他社にとっての他者/誰か」でいる、ということを区分けなどを使って説明し、後半では、他者と自分の関わりについて深堀されていた。 作者いわく、「ふつう」とは、同じ区分けを共有している時に感じるものである。その例として作中では男...

前半では、「自分」は他人と関わって何らかの役割を持ち、「他社にとっての他者/誰か」でいる、ということを区分けなどを使って説明し、後半では、他者と自分の関わりについて深堀されていた。 作者いわく、「ふつう」とは、同じ区分けを共有している時に感じるものである。その例として作中では男女の区分けなどをあげているが、今はジェンダーというボーダーを超えた概念が生まれていて、それがきっと新しい「ふつう」にあたるのかなと思った。 「ふつう」という言い方はあまり個人的には好きではないが、それはきっと「ふつうじゃない」=「おかしい」と感じてしまうような感覚を自分が持っているからだと思う。「じぶん」を認識するために区分けが必要であるなら、それを「ふつう」というのはやめていきたいと思った。 また、パーツを入れ替えた時にそれが自分と言えるか?というところに関連して「テセウスの船」を思い出した。 テレビや雑誌などのマスメディアによって〈顔〉(顔面ではなく、作中では他者から自分に対する知覚。声や緊迫した眼差しなど)を見る機会が減っているとあったが、作品が書かれた1996年にも増して、まさに今のコロナの時代こそその傾向が強まっていると思う。リモートワークでコミュニケーションにおいて不満や不安を覚えることは、顔も見えず、他者が自分に話している(=自分を知覚している)かが伝わりづらいからだろうと思い、すごく腑に落ちた。 「おしゃれ」は自分がしたくてするものだが、そこを突き詰めると、作者が言っているように「自分が(他者から)どんな自分に見られたいか」を表すことにも繋がるのかなと思った。 「自分の本当の死とは、他者に忘れられたり認識されなくなったとき」とあったが、『リメンバーミー』を思い出した。「わたし」が「わたし」として「他者」から認識されていることって、当たり前のようで実はすごく自己肯定感をあげてくれていることなのかもしれない。 他者から知覚され、必要とされることは大切なことだが、それが行き過ぎて他人の望む自分になってしまうと、それは「じぶん」ではなく、「他者が求めるイメージをそのまま投影した存在」になってしまうこと。そのイメージの中に自分はどこにもいなくて、それは「じぶん」が存在しているとは言えないと同義だと思った。

Posted byブクログ