印度放浪 の商品レビュー
これを読んだ時、いつかインドに行くだろうと思った。引き寄せられて抗えず。決まっていた未来が見えた感じ。不思議な感情。行きたいかどうかは分からない。お腹弱いし。
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実に不思議な作品だな、と感じます。 なぜならばあらゆる概念はインドという国の中では 無効化されてしまうから。 私たちの住む世界とは違うのです。 軸も違うのだから 何もかもが違うわけです。 感じるしかないのです。旅をする際には。 そりゃあ人によっては感化されるでしょうね。 まるで著者の後ろを幽霊がごとく いるかのような作品。 感じる本、不思議だぜ。
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写真家にして作家の藤原新也(1944年~)が、23歳(1968年)のときに初めてインドを訪れ、その後3年に亘る複数回の“インド放浪”を綴ったデビュー作で、インドを旅するバッグパッカーのバイブルとも云われる作品である。1972年に発表され、本書は1993年に朝日文庫で復刊されたもの...
写真家にして作家の藤原新也(1944年~)が、23歳(1968年)のときに初めてインドを訪れ、その後3年に亘る複数回の“インド放浪”を綴ったデビュー作で、インドを旅するバッグパッカーのバイブルとも云われる作品である。1972年に発表され、本書は1993年に朝日文庫で復刊されたもの。(現在は再度絶版となっているようである) 私は、藤原氏の死生観を映した作品が好きで、代表作『メメント・モリ』、『東京漂流』、『コスモスの影にはいつも誰かが隠れている』、『たとえ明日世界が滅びようとも』なども読んでいるが、本書の、(背伸びをしつつも)瑞々しく鋭い感性と、詩を読んでいるかのような表現力は、まさに藤原氏の原点を見るような気がするのである。 「<旅>は無言のバイブルであった。<自然>は道徳であった。<沈黙>はぼくをとらえた。そして沈黙より出た<言葉>はぼくをとらえた。悪くも良くも、すべては良かった。ぼくはすべてを観察した。そして我が身にそれを<写実>してみた。」 「インドは、命の在り場所の見えるところである。自然の中のそれぞれの命が、独自の強い個性を持って自己を主張している。三月中旬からとつぜんのごとく燃えだす苛烈な夏の太陽は、私たちの頭上にどうしようもなく巨大な熱球が存在することをいつも忘れさせない。この熱球の放つ熱と光の主張に焼かれた地上の一切は、あたかもその熱球の分子であるがごとく、生命の熱みを孕み、それを放射する。栴檀の木は強烈な匂いを発し、マンゴーの熟れた実は性的な甘い香りで私たちの体を包む。人民の喜怒哀楽は、熱の分子を付着させたまま自然の熱と香の間を陽性に飛び交い、時折彼らはその熱をさますために聖なる河に身を浸す。河のほとりでは、いくつかの炎が上がっており、そこには熱を放射し終え、死を迎えた人の屍が、燃えている。炎の囲りを徘徊する犬、豚、鶏、はげたか。・・・この国においては、熱が法にとってかわっているのだ。それが宗教というものだろう。」 「旅とは?」、「インドとは?」について語った、これほど象徴的かつ魅力的な文章は多くはないだろう。 私は公私併せてこれまで40ほどの国を訪れながら、インドには行く機会がなかった。藤原氏の旅から半世紀が経ち、本書に出てくるタール砂漠の村に住む人々も今では携帯電話やインターネットを使っているのかも知れない。しかし、やはりインドには行かねばならない。生と死が共存する土地インドを知らずに死生観を確立することはできない。そう強く思わされる一冊であった。 (2018年2月了)
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読みたいなあと買っておいた東京漂流と印度放浪だがなかなか手に出来ないでいた。今回やっと手に取りやはり書かれた順番通り印度放浪から読んでみた。藤原新也さんが20代前半に二度印度を放浪したときの手記なのだが、想像していた通りあの電波少年の旅どころではない、ある意味無謀とも思える無頼ぶりが素晴らしい。自分探しの一つの方法であったのかもしれないが印度の奥地にまで足を伸ばしてほぼ無銭旅行のような形でカメラだけを抱えてほっつき歩いた青年のタフさに読むだれもが驚かせられるだろう。下手すると死んでいたかもしれないくらいの経験の数々に随分と古い著作にもかかわらず新鮮な驚きを覚えた。その無謀な旅のなかでただただ人々を観察しつづけ、時には川を流れる既にこの世にはいない流れて行く人を眺め、また大きな風景の中のちっぽけな自分を観察し続けて浮かんでくる言葉を心に刻み、言葉にできないときはフィルムにその思いを焼き付けた。そして平和ぼけの状態にすでにあった40年ほど前の日本にもどり写真をまとめ言葉を書き留めてこの作品を生み出したのは、彼なりの考えない日本の人々への挑戦だったのだろう。東京漂流を読むのが楽しみだ。
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出会う人々は、悲しいまでに愚劣であった。悲惨であった。滑稽であった。軽快であった。はなやかであった。高貴であった。出会う人々は、荒々しかった。 インドの持つ独特の熱がまた蘇ってきた。
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汚れた犬が、炭のようになった人間の骨の屑を、ガリガリ食っている。何となくおもしろくないので、蹴とばそうとすると、こちらに向かって来た。ここでは、犬どもが人間と犬との関係をまったく知らない。ぼくのことを、それは食べるものだと思っている。
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電波少年でバックパッカーに興味を持ち、 この本でバックパッカーになった。 旅への衝動に駆られる。
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文章が緻密なんだけどいやに感覚的すぎる。 こうゆう文章表現は芸術肌の人に多い気が。 写実主義。きれい
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1970年代の多く出版された「海外放浪記」の中でも異彩を放つ一冊です。藤原新也は作家でありカメラマン。いまの「フォトエッセイスト」を先取りしたような存在として知られています。その彼の処女作が「印度放浪」です。若者の旅の記録ではあるものの、フォトジャーナリストらしい視点で描かれた...
1970年代の多く出版された「海外放浪記」の中でも異彩を放つ一冊です。藤原新也は作家でありカメラマン。いまの「フォトエッセイスト」を先取りしたような存在として知られています。その彼の処女作が「印度放浪」です。若者の旅の記録ではあるものの、フォトジャーナリストらしい視点で描かれたインド。そこには死と生に境目のない国の不思議が写しだされ、熱い若者の文章が添えられています。 ガンジス河へ葬られ、犬に食べられる遺体。赤ん坊を抱く若い女性、骨ばった老人。美しい風景とこうした人々が共存する写真は強烈な印象を与えます。そして「歩むごとに、ぼく自身と、ぼく自身の習ってきた世界の虚偽が見えた。」と言い切る若さは、多くの若者をインドへ向かわせました。 その後「西蔵放浪」「東京漂流」そして傑作といわれた「メメント・モリ」で確固たる地位を築いた藤原新也だけに、原点の旅の切なさは同じ旅する者として共有したい。
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インド大好き。 章の合間に関係写真を織り交ぜるところが、また想像を掻き立てるのを手伝ってくれるようでよかった。 放浪記ってイメージが大切ですし。
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