硝子戸の中 の商品レビュー
余裕の筆力で綴られる…
余裕の筆力で綴られる、おだやかな日々。もっと小説を書いてほしかったと心底思います。
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漱石が病死する一年前…
漱石が病死する一年前に朝日新聞に連載されていた随筆集です。静謐な文体で、日常生活が綴られていて、そこに何か大事件が起こったりするわけでもないのですが、非常に味わい深く、上手く言えませんが何度でも読み返したくなる作品です。滲み出る漱石の人間性や、美しく完璧な文章の力でしょうか。
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漱石が病死する一年前…
漱石が病死する一年前に朝日新聞に連載されていた随筆集です。静謐な文体で、日常生活が綴られていて、そこに何か大事件が起こったりするわけでもないのですが、非常に味わい深く、上手く言えませんが何度でも読み返したくなる作品です。滲み出る漱石の人間性や、美しく完璧な文章の力でしょうか。
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がらすどの「うち」 と読む方がいいようだ。 漱石がすでに亡くなった親族のこと、昔住んでいた場所のこと、犬猫のこと…と身近な材料で語る。 印象的だったのは、妻と喧嘩していたり、義理で引き受けた講演会の謝礼が届いてなんかイラッとしたりする、めんどくさおじさんの漱石が透けて見える箇所...
がらすどの「うち」 と読む方がいいようだ。 漱石がすでに亡くなった親族のこと、昔住んでいた場所のこと、犬猫のこと…と身近な材料で語る。 印象的だったのは、妻と喧嘩していたり、義理で引き受けた講演会の謝礼が届いてなんかイラッとしたりする、めんどくさおじさんの漱石が透けて見える箇所と、死に美しさを感じながらも生に固執もしてしまう中で、とある女性に「そんなら死なずに生きていらっしゃい」と声をかけるところ…。
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最初は書斎の中での話なのかなと思いましたが、案外そうでもなかったです。有名、無名に関わらず色々な人が出てきましたが、短命な人もそれなりにいたのが少し悲しかったです。明治時代ということを考えると仕方のないことかもしれませんが。
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古本屋で1983年出版のこちらを発見し手に取ってみた。 私の中の夏目漱石といえば写真のイメージのみで、はっきりとこの作品読んだといえるものはない。 中でもこちらはエッセイで新聞に掲載されたものだそう。 読み始めて、驚いた。 いくら現代語訳されたものとはいえ、1933年ごろに書かれ...
古本屋で1983年出版のこちらを発見し手に取ってみた。 私の中の夏目漱石といえば写真のイメージのみで、はっきりとこの作品読んだといえるものはない。 中でもこちらはエッセイで新聞に掲載されたものだそう。 読み始めて、驚いた。 いくら現代語訳されたものとはいえ、1933年ごろに書かれたとは思えないくらいスラスラと読める。単純に面白い。 堅苦しい難しい言葉の羅列など一切なく、夏目漱石の過去の思い出、部屋に出入りした人とのやりとりなど回顧録の形を取っている。読んでいて夏目漱石の人柄がプラスになった。気難しく繊細なイメージだったが、気の利く(というより効かせすぎる?)、優しいおじいちゃん、と言った感じ。 大作家先生にこの絵を評価して、とかあげたお茶返せ、とか、しまいにはお茶はいいから金かえせ、とか大迷惑厚顔無恥のような人はいつの時代もいるものね。結果一生残る本に登場できたんだから良かったのかも? 他の作品も読んでみよう。
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表題のエッセイは、作家の内省的な思考の結露だが、明治150年経た今でもうなってしまうほどの読みごたえはある。当時からめんどうくさい読者はいたのだな。
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つまり、エッセイ集だと思えば良いのではないでしょうか。 夏目漱石というと、なんだか恐れ多いんですけれど。 僕はこの人の文章は、そこはかとなく乾いたユーモア、好きなんです。 面倒くさい人だなあ、とは思います。面倒くさいインテリのオッサン。 内容は、作家の日常ってやつですかね。 ...
つまり、エッセイ集だと思えば良いのではないでしょうか。 夏目漱石というと、なんだか恐れ多いんですけれど。 僕はこの人の文章は、そこはかとなく乾いたユーモア、好きなんです。 面倒くさい人だなあ、とは思います。面倒くさいインテリのオッサン。 内容は、作家の日常ってやつですかね。 「こんな変な客が来たんだよね」 「実は僕の幼少時代にこんなことがあって」 「私の母親っていうのはこういう女性でして」 「俺、ちょっと変わってて。こんなことしちゃうんだよね」 というようなことを書き綴っているわけです。 僕は、なるほどナルホドと、肩もこらず読みやすく面白かったです。 時代風俗固有名詞、無論こと明治時代のことどものなんです。なんですけど、読みやすい。 それは、結局はヒトのお話だからでしょうね。 「こんな人のこんな無礼に怒った」 「こんな可哀想な人がいた」 「母って自分を愛していたんだろうか」 「友達と再会、いやあ、互いにオッサンになったもんだ」 「こんな犬、こんな猫を飼っていてね」 みたいなことなんです。 だから、一見、とりとめもない。 とりとめもないようでいて、実はちゃんと計算して書かれている。 タレントさんの「今日はこんなカレー食べた!うまかった!テレビ局なう」みたいなブログではないですから。 ちゃんと読み物になっている。 ただ、話題が自分のことである。自分のことだから事実である。ジジツであるからには、そんなに大したことはない。大したことはないから、気軽に読める。 具体的には。 ●雑誌の記者なんかに写真を撮られる時に、笑ってくれって言われるのがどうにもイヤなんだよなあ。 という冒頭編から、漱石さんらしさ炸裂。 つまりは面倒くさいインテリなんです(笑)。 面倒くさいインテリが、なるたけ誠実に、なるたけ褒められて生きていきたいなあ、という。 ●講演をしたけど、出席した人が「さっぱり面白くなかった」と言っていた。と、聞いて落ち込んだ。と、どこかに書いたら、別の人から「面白かったですよ」と慰めてもらった。 この講演話なんか、なんだか面倒な人柄が彷彿として、ほとんど落語のマクラ話みたいな爆笑モノ。 一方で、夏目漱石さんは結構、不幸な生まれ育ちなんですね。 養子に出されたり、両親のことを祖父母と言われて育ったり。 そんな生い立ちや、生家のこと。 まだまだ江戸時代の香りが残る江戸の暮らし。 そして複雑で面倒な家族に育ったんだから、まあ、面倒な男になってもしょうがないか…という若干の重さ。 ただ、それをまったくもって「俺ってかわいそうでしょ」という臭みを抜いて語り切る筆力技術は、やっぱりすごいなあ、と。 そして、僕にとっては白眉は 「他人に対する自分の態度について」みたいな内容の一章。 これはもう、とにかく人間関係っていうやつの泥沼の深み、他人と自分との距離感、さみしさ、救い、面倒さみたいなものを、 これまた実に淡々と語りつくしています。 夏目漱石さんの後期の小説を読んだことがある人なら、 「ああ、この人こんなこと考えてるから、あんな小説かけるんだよなあ」という。 でもそれも、実に面白い。 僕はどこかしらか、ユーモアを感じます。 好きなんですよねえ。漱石さん。 「極めてあやふやな自分の直覚というものを主位において、他人を判断したくなる。そうして私の直覚が当たったか当たらないか、要するに客観的事実によって、それを確かめる機会をもたない事が多い」 「私は凡ての人間を、毎日毎日、恥をかくために生まれてきたものだとさえ考える」 「今の私は馬鹿で人に騙されるか、あるいは疑い深くて人を容れることが出来ないか、この両方だけしかないような気がする。不安で、不透明で、不愉快に充ちている」 いやあ、面倒くさいオッサンですね。 これがユーモアがなかったら、読まないだろうなあ…僕も。
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自己を語ることに寡黙であったという漱石が朝日新聞に掲載したエッセー。 当時漱石は胃潰瘍をわずらっていたため、全体的に陰鬱なトーンに仕上がっている。 正岡子規の『病牀六尺』を思い出した。 大正の頃の文章の割にはさらっと読めるので、時代の色を感じるのにはとても良い。 富久町、喜久井町...
自己を語ることに寡黙であったという漱石が朝日新聞に掲載したエッセー。 当時漱石は胃潰瘍をわずらっていたため、全体的に陰鬱なトーンに仕上がっている。 正岡子規の『病牀六尺』を思い出した。 大正の頃の文章の割にはさらっと読めるので、時代の色を感じるのにはとても良い。 富久町、喜久井町あたりの地名が頻出するのも個人的に馴染みがあったなw
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1915年に東京朝日新聞と大阪朝日新聞に、全39回連載されたもののようだ。 随筆とでもいうべきものであろうか。 漱石の文章はたいへん読み易い。であるからこそ、頭の中にすらすらと文章だけが入り込んでしまい、その文章のもつ意味をりかいすることが疎かになってしまう。 私は漱石の文章を読...
1915年に東京朝日新聞と大阪朝日新聞に、全39回連載されたもののようだ。 随筆とでもいうべきものであろうか。 漱石の文章はたいへん読み易い。であるからこそ、頭の中にすらすらと文章だけが入り込んでしまい、その文章のもつ意味をりかいすることが疎かになってしまう。 私は漱石の文章を読むときにいつも感じることだ。
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