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日本近代文学の起源 の商品レビュー

3.8

16件のお客様レビュー

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すべての文学ファンに…

すべての文学ファンにオススメします。同時に日本の近代とは何だったのかを考える上でも非常に参考になる1冊です。

文庫OFF

鵜呑みにすることは出…

鵜呑みにすることは出来ませんが、近代文学研究の必読書の内の一冊です。基本書。

文庫OFF

難しいけど熟読玩味し…

難しいけど熟読玩味してほしい一冊。近代文学とは何か、を語る上で欠かせない一冊。

文庫OFF

2018/10/10

1 風景の発見 2 内面の発見 3 告白という制度 4 病という意味 5 児童の発見 6 構成力について 著者:柄谷行人(1941-、尼崎市、哲学)

Posted byブクログ

2013/02/05

「日本近代文学」が、歴史上に「起源」を有しており、それによって私たちの「文学」をめぐる認識が可能になっている一つの「制度」であることを明らかにする試み。 著者は「文学」という制度を考察するに当たって、ヨーロッパにおける「風景」についての認識の成立を参照している。風景画によって描...

「日本近代文学」が、歴史上に「起源」を有しており、それによって私たちの「文学」をめぐる認識が可能になっている一つの「制度」であることを明らかにする試み。 著者は「文学」という制度を考察するに当たって、ヨーロッパにおける「風景」についての認識の成立を参照している。風景画によって描かれる「外的自然」は、内面を持つ「自己」(self)が発見されることで初めて認識されるようになった。著者は「文学」においてもこれと同様の出来事があったと主張する。近代文学におけるロマン主義とリアリズムは、内的自己の発見と外的自然の発見が同時であったのと同様、表裏一体をなしている。 私たちは「風景」の発見以前の風景を語るとき、「風景」が歴史的な起源を持つことを忘れている。「文学」においても同様である。私たちは「文学史」という枠組みを用いて「文学」の形成以前の文学を論じることを当たり前のように考えている。「文学」という人間の普遍性に関わる営みは、みずからが歴史の中に「起源」を有することを隠蔽することによって、初めて成立する。著者は、日本における「文学」の成立とその隠蔽とを白日のもとにさらそうと試みている。 本書が取り上げるテーマの一つに、明治における言文一致運動がある。明治以前の文人たちにとっては、実際の風景よりも「詩歌美文の排列」こそが重要だった。言文一致の確立によって、自己の意識にとって透明な言葉を作り出されることで、「風景」をあるがままに「写生」することが初めて可能になったのである。だが容易に見て取られるように、ここで起こっているのは、言文一致体という新しいエクリチュールの確立によって、「内面の声を聞く」という音声中心主義的な自己意識が形成されるという出来事にほかならない。 このほか、「告白」という制度と自然主義文学の関係を論じた論考や、坪内逍遥と森鷗外の間で交わされた「没理想論争」、芥川龍之介と谷崎潤一郎の間で交わされた「小説の筋論争」を手がかりに、非西洋の日本に「文学」という制度が確立されるプロセスを解明する論考が収められている。

Posted byブクログ

2012/01/26

非常にためになった一冊。 内容が充実していて、一度や二度読んだくらいではまだまだ理解し切れていないところがある。 それにしても、蓮實の語り方と柄谷のそれを比べると、著しく違っているなといつも思います。

Posted byブクログ

2011/11/09
  • ネタバレ

※このレビューにはネタバレを含みます

 考える枠組み、というものに自明性が認められるのは当然のことで、それがなければどこに足場を確保すればいいのかわからないじゃないの、ということになるのだけど、自明性の検討を無視して進められた思考はひょっとするととんでもない誤謬を抱えたまま突き進むかもしれないじゃん、っていうのは昔からいろんな哲学者が口すっぱく言ってるけど、なんだかんだで歴史の重みの上で築かれ、みんなが自然とそう信じていることは、それだけで機能してしまいがちだし、誤謬も隠蔽しちゃうよね、じゃあその歴史性の捏造暴いてやるよ、「日本近代文学」なるものが成立した仕組みを曝け出して、「文学」あるいは「文学的」なる言葉を突き崩してやろうじゃん、という本。  例えば明治期、「日本近代文学」なるものの成立する頃、文化的に大きな運動として「言文一致」というものがあったわけですが、それを言と文の一致とみなしたところに、大きな誤謬がある。言でもない、文でもない、まったく異形な怪物がそこに誕生し、その怪物によって視点は一変してしまった。言としてあったこと、あるいは言になろうとして頭に浮かんできた言以前の何物か、それがこの言文一致によって、自然な形で、透明な形で、文として現れてきた、なんてことはまったくないのであって、そう思わせたところにこの仕組みの罠があったわけです。  議論は概ねこのような感じ。つまり、「近代的な普遍性」というものを、次々に解体していく作業です。わけのわからない普遍性らしきものに依存したままでは、さまざまな誤謬を野放しにしてしまうし、そしてまた「文学」なるものにイデアを見出し、そこへの漸近線を価値判断の基準として設定するなんて、そんなわけのわからないことにもなりかねない。  大どんでん返し大会を行うに当たって、依拠するのは徹底した論理性、歴史性が捏造したものを暴き立てるのだから、必然的にそうなりますが、ゆえにこの本は「文学史」には一切関わりがなく、また、同時にだからこそ文学史の本足りえた、といったところでしょうか。

Posted byブクログ

2009/10/07

8/4 「日本」「近代」「文学」の拠り所を見つめ直し、その「起源」を探る。 これまで安住していた価値基盤の危うさに、思わず後ろを振り返りつつ。

Posted byブクログ

2009/10/04

「文学書を読んで文学の如何なるものなるかを知らんとするは血を以て血を洗ふが如き手段たるを信じたればなり。余は心理的に、(中略)、社会的に文学は如何なる必要あって存在し、隆興し、衰滅するかを極めんと考えり」(夏目漱石) 「モナリザは、(絵画における)風景から疎外された最初の人物で...

「文学書を読んで文学の如何なるものなるかを知らんとするは血を以て血を洗ふが如き手段たるを信じたればなり。余は心理的に、(中略)、社会的に文学は如何なる必要あって存在し、隆興し、衰滅するかを極めんと考えり」(夏目漱石) 「モナリザは、(絵画における)風景から疎外された最初の人物である。彼女の背景にある風景は、風景であるが故に風景として描かれた、最初の風景である。それは純粋な風景であって、人間の行為のたんなる背景ではない。それは中世の人間たちが知らなかったような自然、それ自身のなかに自足してある外的自然である」(ファン・デル・ベルク) 「風景が画家に提供する興味は、かくのごとく、だんだんに変遷してきたのである。すなわち、初めは画の主題の補助物として、主題に従属せしめられていたものが、次に、妖精でも住んでいそうな、幻想的な新天地を表現することとなり、最後に来たのが印象の勝利であって、素材或は光が、すべてを支配するようになった」 「私が絵画について述べたことは、全く驚くべき的確さを以て文学にも当嵌まるのである。すなわち文学の、描写というものによる侵略」(ポール・ヴァレリー) 「この新しい時代(近代)は、すべての実在をそれぞれ”内的経験”と”外的世界”、主観と客観、個人的実在と公共的真理とに二分する強力で革命的な創造的観念を、手中に入れた」(S.K.ランガー) 「風景がいったん成立すると、その起源は忘れ去られる。それは、はじめから外的に存在する客観物のようにみえる。ところが、客観物(オブジェクト)なるものは、むしろ風景のなかで成立したのである。主観あるいは自己(セルフ)もまた同様である。主観(主体)・客観(客体)という認識論的な場は、「風景」において成立したのである。つまりはじめからあるのではなく、「風景」のなかで派生してきたのだ」 「山水画家が松林を描くとき、まさに松林という概念(意味されるもの)を描くのであって、実在の松林ではない。実在の松林が対象として見えてくるためには、この超越論的な「場」が転倒されなければならない。遠近法がそこにあらわれる。厳密にいえば、遠近法とはすでに遠近法的転倒として出現したのである」 「たとえば、シクロフスキーは、リアリズムの本質は非親和化にあるという。つまり、見なれているために実は見ていないものを見させることである。(中略)リアリズムとは、たんに風景を描くのではなく、つねに風景を創出しなければならない。それまで事実としてあったにもかかわらず、だれもみていなかった風景を存在させるのだ」 「つまり内的なセルフ(自己)の優位のなかではじめて写実(リアリズム)が写実として可能だということである。」 「そうだとすれば、ロマン派とリアリズムを機能的に対立させることは無意味である」(柄谷行人)

Posted byブクログ

2009/10/07

「意味」にまみれた言葉やモチーフから、如何にしてその「意味」を剥ぎ取っていくか。創作とは、全てそこから始まる気がする。

Posted byブクログ