天璋院篤姫(下) の商品レビュー
人の上に立つ女性のあ…
人の上に立つ女性のあり方、江戸時代の日本女性の強さを実感しました。今の自分はなんてラクに生きてるんだ・・と反省させられ、読んでいる間は、しとやかな我慢強い女でいられたと思います。
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過酷な人生を生きた女…
過酷な人生を生きた女性・天璋院篤姫の人生を描いた歴史長編。歴史の勉強にもなりました。
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上巻を読んだ段階では篤姫は理知的な女性という印象を受けたが、下巻まで読んでみるとむしろ「信念の人」だと思った。 篤姫と和宮(あるいは江戸方と京方)とで道徳観・家族観が噛み合っていない感じがするが、篤姫が信じて疑わない儒教っぽい道徳観は、朝廷や公家社会においてはあまり重んじられて...
上巻を読んだ段階では篤姫は理知的な女性という印象を受けたが、下巻まで読んでみるとむしろ「信念の人」だと思った。 篤姫と和宮(あるいは江戸方と京方)とで道徳観・家族観が噛み合っていない感じがするが、篤姫が信じて疑わない儒教っぽい道徳観は、朝廷や公家社会においてはあまり重んじられていなかったのだろうか? 夫である家定の弱さに対しては理解しようと努力したのに、嫁の和宮に対しては過剰な期待をしては「裏切られた」の繰り返しなのは、篤姫のこの家族観ゆえか。 皇妹であることを抜きにしても、嫁に篤姫自身と同レベル以上の強さを求めるのは無理があると思うが… 島津斉彬の陰謀や慶喜の人物像など、どのあたりまでが史実に基づいているのだろう。 幕府が瓦解した結果として篤姫は自由を手に入れ、和宮とも親しくなれたわけだが、それでも篤姫にしてみれば徳川幕府が続いていたほうが望ましかったのだろうか。 最後に、雷嫌いの篤姫がかわいい。
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下巻、将軍御台所、妻としての生きている中の夫家定の死後天璋院になってからの生き方にまた引き込まれます。 徳川家を強い気持ちで支えていく天璋院と嫁和宮との関係、そして江戸城を明け渡すまでの奔走。 うまく書けないけど最後は幸せだったのかなと思わせてくれて読んだ自分も幸せな気分で終わる...
下巻、将軍御台所、妻としての生きている中の夫家定の死後天璋院になってからの生き方にまた引き込まれます。 徳川家を強い気持ちで支えていく天璋院と嫁和宮との関係、そして江戸城を明け渡すまでの奔走。 うまく書けないけど最後は幸せだったのかなと思わせてくれて読んだ自分も幸せな気分で終わることができました。
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以前から興味が有った人だったので読んでみましたが、世間に伝わっているイメージと全然違う事が書いてあって、驚きました。 歴史では、慶喜派だと聞いてましたが、実際は慶喜が嫌いで、最後まで徳川家を滅亡させたのは彼だと思っていたと書いてあり、意外でした。和宮との関係も、とても心が打た...
以前から興味が有った人だったので読んでみましたが、世間に伝わっているイメージと全然違う事が書いてあって、驚きました。 歴史では、慶喜派だと聞いてましたが、実際は慶喜が嫌いで、最後まで徳川家を滅亡させたのは彼だと思っていたと書いてあり、意外でした。和宮との関係も、とても心が打たれました。 女性として、本当に素晴らしい人。いつも周りとの和を大切にし配慮を忘れない。夫を立てて、例え周囲が朝廷や攘夷派に翻弄されても、意志を強く持って貫く。そんな彼女の生き方に感動です。 『女として生きる事とは何ぞや』という事を考えさせられる本でした。
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(2008.02.24読了) 篤姫は、島津斉彬に徳川家定のあとは、一橋慶喜を後継とするようにと言い含められて輿入れしたのですが、紀州の慶福(後の家茂)と一橋慶喜に直接対面してみた結果、慶喜は将軍にふさわしくないと判断し、一橋慶喜を後継として押すことをやめてしまう。 1858年4月...
(2008.02.24読了) 篤姫は、島津斉彬に徳川家定のあとは、一橋慶喜を後継とするようにと言い含められて輿入れしたのですが、紀州の慶福(後の家茂)と一橋慶喜に直接対面してみた結果、慶喜は将軍にふさわしくないと判断し、一橋慶喜を後継として押すことをやめてしまう。 1858年4月23日、井伊直弼大老に就任。6月19日、日米修好通商条約に調印。 6月25日、将軍継嗣は徳川慶福に決定と公表。(11頁) 「島津藩主、島津斉彬公が去る7月16日早暁、薨去遊ばされました」と薩摩よりの使者から伝えられたのが、7月28日。(29頁) 「将軍家定公、去る7月6日、ご持病の脚気にて薨去遊ばされました。先例にのっとり8月8日、喪を発表いたしたく存じ上げます」と告げられたのが8月1日。(39頁) 将軍家の墓所は、上野寛永寺と芝増上寺と二つあり、将軍薨去の際、毎度熾烈な争いをする。家定は、上野寛永寺と決まった。(47頁) 家定の葬儀の頃には、井伊大老の安政の大獄が始まっていた。安政の大獄の直接のきっかけは、朝廷から水戸藩に幕府討伐の勅諚が下りたことだった。(48頁) 8月末、幾島は、三毛の子猫を連れてきた。猫はさと姫と名づけられて、篤姫を慰めてくれることになる。さと姫は16年生きた。(51頁) 10月25日、朝廷からの将軍宣下が下り、家茂(徳川慶福)は14代将軍に就いた。(63頁) 1860年3月3日、桜田門において井伊大老、水戸浪士によって殺害される。(71頁) 幕府に攘夷を実行してもらうため、皇女和宮と将軍家茂の婚儀が進められ、1962年2月に挙行された。 和宮は、輿入れの条件として、入輿後も御所風を遵守すること、御所の女官を随従させることを上げていたこともあり、武家風と御所風で何かと対立が絶えなかった。 和宮の母親も付いてきているので、融和を図ることは、並大抵のことではなかった。 (下巻の大部分は、和宮と篤姫の話で埋められています。火事と喧嘩は江戸の華と謳われたように、江戸城も江戸の火事の類焼で、何度も焼けているようで、和宮と篤姫も何度も焼け出されています。) 1866年7月20日、長州征伐に出かけていた家茂が大阪城で病のため死亡。21歳の生涯を閉じた。家茂は、後継に田安亀之助を指名していたが、一橋慶喜を押す声が強く、15代将軍には、一橋慶喜が就いた。 篤姫は、一橋慶喜を将軍にふさわしくないとして、反対したが、受け入れられなかった。篤姫は、最後まで、一橋慶喜を受け入れず、後々まで、一橋慶喜との行き来を禁じた。 篤姫の危惧の通り、徳川慶喜の将軍らしからぬ行動で、幕府は大政奉還し、明治へと変わる。大きな混乱もなく政権が交代したことを徳川慶喜の功績とすべきか、ふがいなしとすべきかは、なんともいいがたいところです。 江戸城明け渡しのときの様子、明け渡し後の篤姫の様子なども興味深く読みました。 江戸城の無血開城は、勝海舟と西郷隆盛の会見で決められたと聞いたように思うのですが、「旗本の山岡鉄舟が勝海舟の手紙を持って駿府の大総督府に西郷参謀を訪ねた」(280頁)ということは書いてあるのですが、勝と西郷の会見の話しは出てきません。 1883年11月20日、篤姫は48歳の生涯を閉じた。 (2008年2月26日・記)
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続きが気になって、一気に読んでしまった。他のことをしようと思っていたのに。 和宮降嫁後の嫁姑紛争には読んでいてちょっと疲れたけど、慶喜の代になっての「動乱」の章は、息もつかせぬ展開で面白かったです。
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で、大河ドラマになるんですね(2008年か?)。ちょっと見てみたい気になっています。っつか、大河ドラマって司馬さんと宮尾さんで原作持ち回り?(笑)
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2008年大河ドラマ原作。下巻くらいから大奥って感じがしてきます。大奥の中での対立や小競り合いなどは読んでておもしろい。最後までとても楽しく読め、読後感もよかった。テレビでの放送が楽しみな作品です。
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よく篤子さまは和宮様視点で見られがちなのですが、これを読んだらイメージが変わります。 とても養子想いです。 そして明治維新を迎えたのち、ゆっくりと語り合おうと想っていたのに亡くなってしまった和宮さまへの思い・・・・。 何だか切なくなってきます。 再来年の大河ドラマでどのように描か...
よく篤子さまは和宮様視点で見られがちなのですが、これを読んだらイメージが変わります。 とても養子想いです。 そして明治維新を迎えたのち、ゆっくりと語り合おうと想っていたのに亡くなってしまった和宮さまへの思い・・・・。 何だか切なくなってきます。 再来年の大河ドラマでどのように描かれるのか楽しみです★☆
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