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日本外地都市計画史
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日本外地都市計画史

五島寧(著者)

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日本外地都市計画史

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商品詳細

内容紹介
販売会社/発売会社 鹿島出版会
発売年月日 2024/09/10
JAN 9784306073692

日本外地都市計画史

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2024/11/25

横浜市で都市開発の担当職員をしている著者が、日本外地(朝鮮、台湾、関東州、満州等)の都市計画について研究した書。研究の対象は法令で、主に都市計画法と建築基準法について、内地と外地を比較している。外地には内地の法律が適用されず、それぞれ別々の法律に基づいて統治されていたため、地域に...

横浜市で都市開発の担当職員をしている著者が、日本外地(朝鮮、台湾、関東州、満州等)の都市計画について研究した書。研究の対象は法令で、主に都市計画法と建築基準法について、内地と外地を比較している。外地には内地の法律が適用されず、それぞれ別々の法律に基づいて統治されていたため、地域によって内容が異なる。それぞれの土地関連の規則を比較するといったマニアックな研究ではあるが、分析は精緻で極めて学術的である。二次資料に基づき日本の強制や圧力によって行われたとする以前の研究を、一次資料から否定している箇所がいくつもあり、面白く読めた。勉強になった。 「外地とは日清戦争終結後から新たに領有または統治した地域を指す。『外地法制誌』(1955〜)では、台湾、樺太、関東州・満鉄附属地、朝鮮、南洋諸島を外地として定義している(本書では、都市計画法と市街地建築物法に相当する法律の存在した、台湾、朝鮮、関東州、満鉄附属地および満州国を対象とする)」p20 「ロシアは、1899年にダルニー市の建設に着手した。日本軍は日露戦争時にその地を実効支配し、1905年に「大連」に改名した」p36 「関東州は領土ではないため大日本帝国憲法の効力は及ばないが、条約に基づく租借地のため統治権は有するので、勅命による立法権の行使をを慣例化した」p37 「(大連市建築規則)商業地区では四等以上の街路沿いでは街路境界から一尺五寸下がった位置に公定建築線が指定されるとともに、セットバック部分は石材、レンガ、コンクリートによる舗装が義務付けられている」p40 「大連の人口は1905年の1万8000人に比較して、1929年時点で14倍を超える26万人に達しており、市の膨張発展を統制する必要に迫られた」p42 「日本と満州国は別の国家という建前であり、満鉄附属地は日本の主権下にあったことから、満州国建国後も満鉄附属地の治外法権は継続したが、1937年に解消された。関東州外の道路・公園の管理も満州国へ移管された」p47 「(朝鮮人居住地より日本人居住地の開発が優先されたことはない)朝鮮総督府は市街地全体の整備バランスを重視し、既に一定の整備が施されていた日本人居留地への投資はむしろ消極的であった。日本人住民の意向に対して冷淡で、超然的にインフラ整備を進めている。日本人住民意見の黙殺は今日では問題のある姿勢とはいえ、整備水準の低い箇所への投資の優先は、ある意味合理的ではある」p70 「総督府前から敦化門前を通り、宗廟と昌徳宮の間を抜けて、大学の前へ行く大道路ができた。これは私が設計施工の責任を持っていた道路であるが、あれをやるときにはなかなか物議を醸したものである。この道路ができると、昌徳宮から宗廟への道路がなくなる。昌徳宮の裏山から宗廟へ続いている山の脈を断ち切ることになるから、あそこへ道路を通すことには李王家が反対であるという。全州李氏と称する両班達が、全州辺りから多数やってきて、山の脈を断ち切ることは絶対反対であるという大騒ぎである。斎藤総督がこの騒ぎを聞かれ、どうしてそのような面倒な工事をするのかと言われる。勿論、前以て総督まで稟申、決裁済の工事だったのだが、齊藤さん、そんなことは知らん顔で、やめろと言われる。しかし、工事をやることは、我々としては神聖な仕事だから、私は何としてもいったん決めた事はやるつもりで、李王職の篠田次官ともいろいろ相談した。すると篠田さんは、それはかまわぬよ、やったらよいではないかと言う。けれども何分にも総督が待てと言われるので、しばらく様子を見ていた。ところが、篠田次官が何かと話のついでに李王殿下に、この道路問題について御説明申し上げたところ、殿下は、今頃、全州李氏が山の脈が切れるなどと騒いでいることはおかしなことだ。都市計画全体から見れば、あそこに一本、道路が通ずるのは当たり前のことである。直ぐ工事を始めたらよいではないかと申された。篠田さんからそのような御話があったので、総督に申し上げると、齊藤さんは喜ばれ、それなら工事をやるがよかろうということになり、遂に竣工したものである。流石に李王殿下は偉いところがあった。旧弊なことは全く申されず、全州李氏などと騒ぐのを冷笑されたわけである。わたしも、その道路を通すについては、設計上相当考えて、昌徳宮から宗廟へ通ずる道路には、女官などの往来するのが外部から見えないような跨道橋を特別に造った。これは今でも残っていることと思う(実際、今でも残っている)p71 「

Posted by ブクログ

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