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商品詳細
内容紹介 | |
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販売会社/発売会社 | 祥伝社 |
発売年月日 | 2020/11/01 |
JAN | 9784396617462 |
- 書籍
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本能寺の変 信長の誤算
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本能寺の変 信長の誤算
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作者は「本能寺の変」を明智光秀の謀反とはとらえず、豊臣秀吉が仕組んだととらえている。 明智光秀謀反説の根拠となる古い文献の齟齬をあげて、実際に明智光秀が本能寺の変を起こせなかったことを説明している。 この本の題名が「信長の誤算」となっているが、「光秀の誤算」のほうが正しいように...
作者は「本能寺の変」を明智光秀の謀反とはとらえず、豊臣秀吉が仕組んだととらえている。 明智光秀謀反説の根拠となる古い文献の齟齬をあげて、実際に明智光秀が本能寺の変を起こせなかったことを説明している。 この本の題名が「信長の誤算」となっているが、「光秀の誤算」のほうが正しいように感じる。 ただ、秀吉が仕組んだとしても、本能寺後に光秀が「僕じゃないよ!」と動かなかったのだろうか? 光秀が貧乏くじを引いて、秀吉がおいしいところをみんな持って行った。 結局、歴史は勝者の都合の良いように書き換えられるということ。
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一ヶ月程前(令和2年11月頃)に本屋さんで見つけてすぐに購入してしまった本です。このような本が歴史研究者の間だけで共有されるのではなく、一般人に対しても書籍の形で出てくるのは歴史好きの私にとって嬉しい限りです。 遥か昔に学校で本能寺の変を習ったとき、明智光秀が犯人で、それを直ぐ...
一ヶ月程前(令和2年11月頃)に本屋さんで見つけてすぐに購入してしまった本です。このような本が歴史研究者の間だけで共有されるのではなく、一般人に対しても書籍の形で出てくるのは歴史好きの私にとって嬉しい限りです。 遥か昔に学校で本能寺の変を習ったとき、明智光秀が犯人で、それを直ぐに討ち果たした秀吉があれよあれよという間に天下人になっていくのを覚えています。それも通過点で、最後には徳川家康が江戸幕府を開きますので、それらにかけた授業は数十分程度だったと記憶しています。 高校生だった私は、本当に明智光秀はそんな大それたことを一人だけでやったのかと思いましたが、この本には本能寺の変において最も有利な状況になった人(秀吉)に焦点をあてて論を進めています。これに対する反論や続編が出てくることを期待しています。 以下は気になったポイントです。 ・通説のほんのうじのへんが間違っている5つのポイントとして、1)本能寺は信長の定宿ではない、2)亀山城を出て本能寺を囲んだとする光秀には一万三千もの兵はいない、3)光秀の謀反を知ったとき、信長は「是非に及ばず」とは言っていない、4)秀吉による高松城水攻めは行われていない5)奇跡の中国大返しも行われていない(p16) ・一万三千のヘイトは50万石クラスの軍勢であり、5万石の亀山城から10倍もの大軍勢は出立できない(p29) ・本能寺の変から遡ること12年前、元亀元年(1570)浅井長政の裏切りにあって挟み撃ちの状況下におかれて絶体絶命のときに「是非に及ばず」と言っていた(p33) ・水攻めがあったとされる陰暦天正10年4月29日から6日間は、古記録では毎日雨が降り続き、高松城本丸はほぼ冠水すんぜんになっていた、降雨だけで高松城趾水攻めの図式が完成されていた(p41) ・5月は小の月で29日が晦日となり30日はない、つまり翌日は6月1日となる(p79) ・信忠隊が妙覚寺を不利として二条御所に立て篭もったという説もあるが、それま間違いで、あくまでも妙覚寺襲撃である、そんな余裕はない(p84) ・秀吉の特殊軍団の正体は、杉原家次を隊長とする、弓・鉄砲・長槍を完全装備した秀吉の御身内衆で構成されている、2日午前4時頃、約一千の精鋭部隊(本能寺300、妙覚寺700)が一斉攻撃をかけて、極めて短時間で全員を殺傷し、信長父子の遺体も収容して完了した(p107) ・光秀と秀吉が共同謀議をした、当の秀吉自身が謀反のカラクリを設え、光秀を囮にして実行した。この2つ以外に、秀吉が「本能寺の変」の出来をあらかじめ知り得る要素は全くない(p147) ・全体を第一次隊、第二次隊、第三次隊と分けて、一次・二時隊は6月2日以前に引き上げを開始、実際にやったのは、宇喜多秀家が最後に高松を引き上げて、岡山城までの15キロの距離はマラソンさながらであっただろう(p149) 2020年12月20日作成
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