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気剣体一致の「極」 常識では決して届かない“見えない技
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気剣体一致の「極」 常識では決して届かない“見えない技"の極限領域

黒田鉄山(著者)

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気剣体一致の「極」 常識では決して届かない“見えない技

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商品詳細

内容紹介
販売会社/発売会社 BABジャパン
発売年月日 2015/11/13
JAN 9784862209443

気剣体一致の「極」

¥1,870

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2024/06/23

だめでない、下手な稽古を丁寧に積み重ねるしかない。 身体そのものを型の形に整形することが術を得る稽古なのだ。 祖父は、ただ数を抜く私を見て、5本も抜いたら、脂汗をかくような精神のこもった稽古をしなければならぬと諭した。 型と言う理論を学んだからこそ、相手の不意の攻撃にも対処する...

だめでない、下手な稽古を丁寧に積み重ねるしかない。 身体そのものを型の形に整形することが術を得る稽古なのだ。 祖父は、ただ数を抜く私を見て、5本も抜いたら、脂汗をかくような精神のこもった稽古をしなければならぬと諭した。 型と言う理論を学んだからこそ、相手の不意の攻撃にも対処することができる。 型は、あくまでも理論でしかない。これで切れるだろうか、刃筋は大丈夫だろうかなどと心配する必要など全くない。今切れないから、型を学んでいるのだ。 意識した通りに、正しく身体を動かすということが、型の眼目。 型は、形骸化と言う宿命とともにしか伝わる道を持たない。だが、その人の見て取った誤解を正すのは、師の役目だ。 意識して、丁寧に動かぬところを動かすように、動いてはいけないところを確実に制御するようにすることが稽古、修行である。 力を抜いて動かすと言う説明は矛盾するが、それが武術の動きなのだ。確かに、抜いて動きに入る動き方が存在する。 昔、祖父が「下手な稽古休むに似たり」と言う注意をした。 自己の技量までしか理解できない。 型の手順を覚えれば、それは形骸化しかないと言う事は再三述べた。覚えた手順に従って動く、その動き方そのものがわざとなるような繰り返しの修練が稽古。 よく観て取るしかないと言うが、見えないものが、真の技である以上、理論による他は無い。それが稽古の正道であり、型稽古の本質である。 走ってはいけない、蹴ってはいけない、力を入れてはいけない、すべてにおいてその力を抜いたが勝ち。 それは目に見える速さ、筋力を絶対的に否定したところから始まる。稽古体系ゆえに、その動き方のみを体に覚え込まされすれば良い。 誰にでも初めからできる動きは技にはならないと心得るべき。 剣の世界においては、体育的な運動、訓練は全て否定されなければならない。 どうにもならないが、できないことをやるのが稽古。 型を前に、できぬできぬ、困った困ったばかりでは、稽古にならない。とてつもなく難しいと言う事は、我々凡人にとって逆に愉快でもある。 わかりやすくしたら、それは技でも超絶技巧でも何でもないものだ。単なる現代的合理主義的観点、学問的観点から名人の技を理解しようとしても無駄なことである。 稽古においては、とにかく初めは大きく動くと言うことを専一に心がけなければならない。大きく動いた結果、最小の動きが生まれるように努めるのである。

Posted by ブクログ

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