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フランソワ・ラブレーの作品と中世・ルネッサンスの民衆文化
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商品詳細
内容紹介 | |
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販売会社/発売会社 | せりか書房 |
発売年月日 | 1973/01/15 |
JAN | 9784796700702 |
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フランソワ・ラブレーの作品と中世・ルネッサンスの民衆文化
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フランソワ・ラブレーの作品と中世・ルネッサンスの民衆文化
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商品レビュー
4.3
3件のお客様レビュー
私がこの作品を手に取ったのは演出家の蜷川幸雄さんがきっかけでした。 ここ最近私はシェイクスピアを学んだ流れから蜷川幸雄さんの舞台に興味を持ち、様々な本を読むことになりました。 そしてその中で蜷川さんが何度も言及していたのがこの『フランソワ・ラブレーの作品と中世・ルネッサンスの...
私がこの作品を手に取ったのは演出家の蜷川幸雄さんがきっかけでした。 ここ最近私はシェイクスピアを学んだ流れから蜷川幸雄さんの舞台に興味を持ち、様々な本を読むことになりました。 そしてその中で蜷川さんが何度も言及していたのがこの『フランソワ・ラブレーの作品と中世・ルネッサンスの民衆文化』という本だったのです。 蜷川さんは自身の演劇を語る際、民衆的な劇を大切にしているということをよく語ります。抽象的で洗練された劇よりも、もっと混沌としたエネルギーに満ちた舞台を蜷川さんは求めます。 その演劇論のベースとなったのが本書『フランソワ・ラブレーの作品と中世・ルネッサンスの民衆文化』になります。 この本自体は上下二段組で400ページ超というとてつもない大作です。しかもバフチンという思想家はただでさえ手強い人物です。 と言いますのもバフチンといえばドストエフスキー界隈では非常に有名な人物で、私もこの作品よりもドストエフスキー関連でその名を知っていました。特に『ドストエフスキーの詩学』は有名です。 初めてこれを読んだ時はその難解さに面を食らったのですが、様々な参考書を読んだりじっくりとドストエフスキー作品を読み込んでようやくその言わんとすることを大まかに掴めるようになったのでした。 そんな難解なバフチンの後期の大作として知られる本作『フランソワ・ラブレーの作品と中世・ルネッサンスの民衆文化』もやはりかなりの難敵でしたが、その言わんとしていることはかなり明確です。これは私自身が以前と変わったか、それともこの本がわかりやすいのか、まあおそらくその両方だと思いますが初めてバフチンの作品を読んだ時とは違う印象を受けました。 蜷川さんが述べるように、抽象的、高貴なものだけでなく、もっと大地的、民衆的なものも評価されなければならないということがこの本で展開されていきます。
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この432頁におよぶ分厚い本は、私の読書傾向のエッポックメーキングとなったもので、思い出深いといえばそうに違いないのですが、10年余の間に三回読んではいますが、たしかに三度も読破したにはしましたが、いまだに未踏の山という気持ちは拭いきれません。 若気の至りとはよくいったもので、...
この432頁におよぶ分厚い本は、私の読書傾向のエッポックメーキングとなったもので、思い出深いといえばそうに違いないのですが、10年余の間に三回読んではいますが、たしかに三度も読破したにはしましたが、いまだに未踏の山という気持ちは拭いきれません。 若気の至りとはよくいったもので、あるいは無鉄砲・恐いもの知らずは若さの特権ですが、引用だとか援用もしくは参考文献の彼方まで飛翔するんだ、という能天気な心意気やよしとしても、いくら背伸びをしたところで、世の中には、どうしても凡人の頭では及びもつかない難解なものがあるのだということを、手痛いほど味わった最初の本でもあります。 カーニバル・道化・祝祭的・グロテスクなどのキーワードが頻繁に出てくる本書は、もちろん圧倒的な山口昌男の影響のもとに読まれようとした本でしたが、彼の文化人類学的な著作より数倍手ごわい相手でした。 哲学書などの、いわゆるふだん使い慣れていない言葉や概念から発する、手に負えない難解さとはまた別個の、単純に前提として深い教養が不可欠という、言いかえれば、こちらの教養のなさが原因でチンプンカンプンだということには、それこそお手上げ状態でした。 まず、なんといっても分析されている対象のフランソワ・ラブレーのことをほとんど何も知りません。かててくわえて、その根底にあるキリスト教そのもの、およびキリスト教的な文化・文明についてもまったくの無知では話になりません。 つまり、この本を読むためには、まずラブレーを読まなくてはならないし、それに彼を取り巻く幾重にも重なった西洋文化の理解・享受も合わせて追求するはめになったのです。 それは、ちょうどそのころ近づいた高階秀爾の『西洋芸術の精神』や『美の思索者たち』あるいは『想像力と幻想』などの著作を読むときに感じたことでもありました。個々の画家の絵を凝視して味わい、彼らの主義主張や史的変遷を多少とも知っているだけでは、その絵のことは半分も理解できないのだということがわかったからです。 100%は難しいとしても、キリスト教にまつわる文化・生活習慣・民俗などを理解・熟知すること。まずなにより、日本的発想に依拠した目で見ないということが必要だ、とまで極端になることはないのですが、その覚悟も必要かもしれません。 それが契機でした。それからというもの、こうなりゃ矢でも鉄砲でも持ってこいという感じで、時代や国籍を問わず、小説はもちろん詩や美術にも、否、人類史そのものに大いにのめり込んでいった、といっても過言ではありませんでした、なんちゃって。 バフチンから拡散して、さらにシュールリアリズムからアバンギャルドやダダへと飛沫した関心は、文学的には(それに社会学的にも)ベルトルト・ブレヒトやヴェルター・ベンヤミンを発見し、やがてロシア・フォルマリズムを経由して、ローマン・ヤコブソンの言語学や構造分析を媒介に、クロード・レヴィ・ストロースの人類学や、フェルディナン・ド・ソシュールやノーム・チョムスキーの言語学まで手を伸ばすに至りましたが、図書館や父の蔵書を借りて読んでいればいいものを、なんと身の程知らずにも高校生の分際で、高価な翻訳本もさることながら、とうていわかるはずのない原書にまで手を伸ばすという、狂気千万な不良行為・愚行にまで及ぶとは、いやはや・・・。 この頃にはまだ、人生は短く人が成せることは限られているなどとは夢にも思っていなかったのでした。 そんなことはともかく、本書の対象としているフランソワ・ラブレーの『ガルガンチュア』は、私も読んでみて驚いたのですが、ミハイル・バフチンのいうように、大笑いを誘い、ときに猥雑で、スカトロジック(糞便趣味)で、不謹慎・不真面目なこじつけと、どこか崇高ささえ感じる下卑たものへの執着や、お祭りどんちゃん騒ぎなどが混在した玩具箱をひっくり返したような物語なのです。 筒井康隆やスラップスティックの洗礼を受けた現代の私たちからすれば、賛同と賞賛を持ってなんなく受容できるのですが、本書の出された1964年当時はそうはいかず、バフチンも≪グロテスク・リアリズム≫なる新概念を引っさげて、ラブレーの作品を通して中世・ルネッサンスの民衆文化の特色、すなわち近代とは違った、近代では忌み嫌うような、笑いが本質的であるような、しかもその笑いは対立する者が存在しない、私たちがイメージするような嘲弄や風刺ではなく、みんなで一緒にドッと笑うということ。 笑いによって世界を相対化させ、崇高なものが引きずりおろされ、卑猥なものが神聖化され、死者が蘇生し、そうして世界は絶えることなく再生され、生者も死者も共存する共同体が夢見られるというのです。
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大学1年生の夏に読破! ものすごく分厚かったが、中身は面白い。カーニバルと価値の反転、ポリフォニーについてあれこれと議論していた。バフチンの基本的な思考枠組みを知るための好著でもある。
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