商品詳細
内容紹介 | |
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販売会社/発売会社 | 新潮社 |
発売年月日 | 1977/09/20 |
JAN | 9784103271017 |
- 書籍
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一遍上人 旅の思索者
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一遍上人 旅の思索者
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「念は出離の障り」 -2006.06.12記 嘗て私が一遍の15年におよぶ遊行と踊り念仏を捉え、説経小栗の世界とを重ね合わせて舞台を創る、というその動機とヒントを与えてくれたのが、栗田勇の「一遍上人-旅の思索者」新潮社-昭和52年刊-であった。 その書の終章近く、一遍の語録を引いたこんな行-クダリ-がある。 以下要約的に引用するので語法.語尾等に些かの改変があることを断わりおく。 ――念は出離の障りなり 念仏とは、口に名号-南無阿弥陀仏-を唱えることであるが、「念仏」という以上、たとえ幾らかなりとも、念=想念の入る余地があるというもの。一遍の説くところは、極論すれば、「念仏」の「念」を捨てれば「仏」が現前するというのだ。またこの「念」は「心」でもあるという。 ――名号に心を入るるとも、心に名号を入るべからず ――心は妄念なれば虚妄なり。頼むべからず 他力.易行の浄土門が、理智を排するのは分かるが、法然は、常に、称名しながら、念々相続して、弥陀を念じつづけることを勧めた。 親鸞は、むしろ、心の内なる信に救いの根拠を求めている。 一遍は、法然の立場を「念」と捉え、親鸞の立場を「心」と捉え、両者の矛盾をつき批判しているといえようか。この矛盾を克服止揚するに、一遍は、融通念仏の思想にたどりつく。口称念仏を、おのれ独りで行じているかぎり、その念仏は、おのれという個人性を離れることは難しい。いかに心を工夫しても、畢竟、念仏は、おのれの心により、おのれの口から発せられ、おのれの生死にのみ拘わらざるを得ない。だが、何十人、何百人とともに、合唱する名号は、すでにおのれの口から出る名号ではない。合唱する南無阿弥陀仏の声は、南無阿弥陀仏が南無阿弥陀仏を唱えている、というわけだ。 この合唱形式こそ、浄土教の主観性から念仏を解放することを可能ならしめたのであり、ひとつの共同体のなかへの参入、融合によって、逆に、そのなかで、おのれを再生することとなる。 合唱による、また、踊るという行為による、自己からの、「念」と「心」からの解放と脱却、おのれを捨て、おのれを超え、時々刻々、生まれ変わるおのれを体験する、という共同体と行為によるこのあり方は、演劇的なカタルシスにも似て、名号における実存的存在感を現出することになるだろう。 このあたり、一遍時衆が、中世以降の芸能者の系譜に、色濃く浸透してゆく事情も読みとれようか。
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