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西田幾多郎の生命哲学 講談社学術文庫
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商品詳細
内容紹介 | |
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販売会社/発売会社 | 講談社 |
発売年月日 | 2011/01/10 |
JAN | 9784062920315 |
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西田幾多郎の生命哲学
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西田幾多郎の生命哲学
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[ 内容 ] 純粋経験、自覚、場所、絶対無、行為的直観、絶対矛盾的自己同一…。 一見、難解なことばにみずからの思索を託しながら、西田が終生追い求めたひとつの問題とは何だったのか。 ほぼ同時代を生きたベルクソンとの交錯に着目し、ひいてはドゥルーズら現代思想につながる「生命の哲学」と...
[ 内容 ] 純粋経験、自覚、場所、絶対無、行為的直観、絶対矛盾的自己同一…。 一見、難解なことばにみずからの思索を託しながら、西田が終生追い求めたひとつの問題とは何だったのか。 ほぼ同時代を生きたベルクソンとの交錯に着目し、ひいてはドゥルーズら現代思想につながる「生命の哲学」として西田哲学を再評価し、注目され続ける、俊秀の記念碑的力作。 [ 目次 ] 序章 西田幾多郎とは誰か 第1章 「純粋経験」―「有機体的一者」への希求 第2章 「自覚」という装置―「無限」のなかでの「自己限定」 第3章 「場所」の論理―「関係」の多層的な「階乗」 第4章 「絶対無」の展開―「非連続」理論的導入 第5章 「行為的直観」―「ポイエシス」の世界 第6章 「絶対矛盾的自己同一」―「生成」のためのロジック [ 問題提起 ] [ 結論 ] [ コメント ] [ 読了した日 ]
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ベルクソンやドゥルーズの生命の哲学を参照軸に、西田幾多郎の思想を読み解く試み。 西田の「純粋経験」はあくまで現在の経験だが、ベルクソンの「純粋持続」と同様、異質的な連続性である一連の流れをも意味している。したがって、純粋経験は潜在的な体系であり、みずからを無限に発展させてゆく動...
ベルクソンやドゥルーズの生命の哲学を参照軸に、西田幾多郎の思想を読み解く試み。 西田の「純粋経験」はあくまで現在の経験だが、ベルクソンの「純粋持続」と同様、異質的な連続性である一連の流れをも意味している。したがって、純粋経験は潜在的な体系であり、みずからを無限に発展させてゆく動的な全体だと理解しなければならない。 だが、著者はこうした説明には一つの困難がつきまとうことを指摘する。それは、ほんらい現実化されたものとしては描けないはずの「全体」を、「現在」というあり方を拡張することで、あたかも一つのものとして描けるように想定してしまっているという問題だ。 西田は、無限に発展してゆく「自覚」の働きや、関係性の階乗化である「一般者」の体系といったアイディアによって、「全体」を記述することが孕んでいる上のアポリアを回避しようとした。だが、「全体」の側から語る彼の立場は「発出論」に陥るという田辺元の批判によって、戦略のみなおしを迫られることになった。 著者は、田辺の批判を受けた後の西田の議論が、「絶対無」を現在の彼方に設定するのではなく、現在の内にそれを内から崩す否定的契機として介入してくるものとして描きなおすものだったと主張する。「永遠の今」における「死」の契機や、「個物」についての語り方の変更などが、そうした見方の論拠とされている。 ベルクソンの「現在」とその基盤となる「過去」に加えて、ドゥルーズは「蝶番のはずれた時間」という第三の時間を導入する。これは、現在の内に「亀裂」をもたらし、新たなものの生成を可能にする「未来」の時間だ。こうした時間論が、著者の西田解釈の下敷きになっている。 一つの観点からの西田解釈としてはおもしろい。
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水野先生の課題図書 まさか西田幾太郎さんの哲学を読むことになろうとは思わなかった。いつも水野先生には不意を衝かれる形になる。でもこれが自分の趣味嗜好から、私の脳の癖から抜け出す機会を作って戴けることになるのだからありがたい。それは水野先生に限らないだろう。すべて誰かに薦めて戴け...
水野先生の課題図書 まさか西田幾太郎さんの哲学を読むことになろうとは思わなかった。いつも水野先生には不意を衝かれる形になる。でもこれが自分の趣味嗜好から、私の脳の癖から抜け出す機会を作って戴けることになるのだからありがたい。それは水野先生に限らないだろう。すべて誰かに薦めて戴ける本はきっとそういう効果を私に与えてくれている。 著者の檜垣立哉さんが『哲学的直観 ほか (中公クラシックス) 』でベルクソンさんの解りやすい解説を書かれていたと水野先生に話していたので、きっとこの本を選んでいただいたのだろう。 養老さんが哲学者本人の著作を読むとその人自身の脳の癖があるからわかりにくくて、凡人は彼の研究者によって解説された本を読んだほうが理解しやすい…みたいなことを書かれていたように檜垣さんの解説は解りやすいように思う。おそらく、もし私が西田さんの著作を読んだら何がなんだかわからず、さっぱりお手上げだっただろう。 だから、この本は西田さんの哲学を物語にした本である。凡人には物語しかわからない。 ポパーのいう世界1を世界2を通して世界3にするのが哲学のようである。おそらくは科学もそうである。 世界1は物質と現象の世界。これは人間には手の施しようのないあるがままの世界である。世界2は哲学者本人にしかわかり得ない世界。哲学者の脳はそのものそれ一つしかなくどこにも繋がってはいない。ある意味閉じきっている。それを開いていくのが文字や文章という言葉による表現なわけだけれども、もしそれによってみんなが共有できる、まぁ…上手くして「普遍的」なものになれば、それが世界3になるかも知れない。 哲学は物質と現象を素材とする。それを自分の脳の中で自分しかわからない仕方で考え抜いて表現する。それがみんなに伝わればいいが、大抵はあまり伝わることなく「変な人」で終わる。まぁ、変であるのが当たり前。だってその人が頭の中で考え出したことなんて普通は他の人にはわからないんだから。(普通にわかることはもう既にわかるとされていることでしかない。それは社会にとって都合のいい物語である。それがわかるということは既にして誰かに支配されているということを意味している。)それでも、考えたいから考えるのであってそれは哲学者の勝手である。だれも文句をいう筋合いのものではない。しかも時には後からそれを研究する人もいて何かの役に立つこともあるのである。 それにしても、巻末に解説にかえて檜垣さんと小泉義之さんの対談があるのだが、これが凄い! 小泉さんの仰る哲学はまるで戦闘である。喧嘩腰!どうも哲学は戦うことのようである。そりゃそうだろう。「俺は自分の頭で考える。お前らに支配なんかされないぞ!」なんだから。 いや~哲学はおもしろい。頑張れ!哲学者。 Mahalo
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