商品詳細
内容紹介 | |
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販売会社/発売会社 | 光文社 |
発売年月日 | 2011/01/11 |
JAN | 9784334752231 |
- 書籍
- 文庫
純粋理性批判(4)
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純粋理性批判(4)
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商品レビュー
4.6
7件のお客様レビュー
いよいよ本筋のデカルト批判に入る。やはり難解で、本書以外の他の解説も必要だ。本書は解説が細分化されすぎていて、全体の位置づけが分かりにくい。
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「批判」の内容からすれば、人間の客観認識を構成するメカニズムを詳解する「超越論的感性論」から「原則論」までが前半とするなら、理性の限界を論ずる本第4分冊の「超越論的弁証論」以降が後半ということになるだろう。しかし実際の章立ては大きく「Ⅰ. 超越論的原理論」と「Ⅱ. 先験的方法論...
「批判」の内容からすれば、人間の客観認識を構成するメカニズムを詳解する「超越論的感性論」から「原則論」までが前半とするなら、理性の限界を論ずる本第4分冊の「超越論的弁証論」以降が後半ということになるだろう。しかし実際の章立ては大きく「Ⅰ. 超越論的原理論」と「Ⅱ. 先験的方法論」の2部構成であり、全体の8割が前者に含まれている。こういう章立ての奇妙さも「批判」を近寄り難いものにしている要因だと思う。 本分冊で焦点が当てられるのは「理性」。純粋理性概念、即ち〈理念〉を利用して知性の働きに統一を与えながら、事象の原因を際限なく遡上し〈無条件的なもの〉の探究に邁進するという本性を持つ。この理念はちょうど知性におけるカテゴリーに対応する働きを持つが、後者が〈構成的〉(経験対象を拡大)であるのに対し、この理念は〈統制的〉(経験を理念に包摂)な性格を持つ。逆にいえば、理念は経験を統制することはできるが経験の対象を超えて認識を拡大させることはできない、ということになる。それでいて因果の系列をより高次なレベルに遡り〈無条件的なもの〉の把握に至ろうとするのだから、この純粋理性の能力は大きな誤謬の可能性を孕んでいるのでは?というのが主論だ。 ここで扱われるのが、「批判」内で何度も立ち現れてくるテーマの一つである「誤謬推論」。〈規定する自己=思考する私〉と〈規定される自己=認識する私〉を混同し、2つの命題をつなぐ媒介概念として使用してしまうため、過剰な結論を導いてしまう推論形式のことだ。こうすると、経験によらない分析的命題から経験を伴うはずの総合的命題が出てきてしまう。ここでもやはり批判の対象としてあげられるのはデカルト的観念論であり、〈わたしは思考する〉という命題そのものは成り立つが、内的直感には持続する他の物(=基体?)への参照が伴わないため、ここから直接「〈わたし〉は他者や肉体といった外界から独立して存在可能」という命題は導けない。だからデカルト的「思惟=実体」という推論は誤謬だというわけだ。確かに〈わたし〉が直感可能な客体だとすると、では〈わたし〉を直感しているの別の〈わたし〉がいるのか?という話になり、これは無限後退を必然的に導いてしまう。 「批判」の中で本第4分冊の扱う範囲は比較的短いのだが、解説では初版における観念論と唯物論に対するカントの反駁が詳細に扱われており、結構な読み応え。カントは一貫して思惟主体に客体性・実体性を与える(つまりカテゴリーを適用して認識の対象とする)ことには強く反対している。このことにより、例えば「心身問題」「自由意思」「目的論」といった諸問題について理性が究極原因を追求してしまい、予定調和や不滅の霊魂などの過剰な結論を導いてしまうことを回避するのだが、ここで重要なのはカントが経験の範囲内でのマイルドなデフレ的決定論・目的論は認めているということであり、それがカントのその後の著作の中で「道徳」や「使命」などの重要なテーゼとして立ち現れてくるのだろう。
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訳:中山元、原書名:KRITIK DER REINEN VERNUNFT(Kant,Immanuel)
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