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千のプラトー(上) 資本主義と分裂症 河出文庫
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千のプラトー(上) 資本主義と分裂症 河出文庫

ジルドゥルーズ, フェリックスガタリ【著】, 宇野邦一, 小沢秋広, 田中敏彦, 豊崎光一, 宮林寛, 守中高明【訳】

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千のプラトー(上) 資本主義と分裂症 河出文庫

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商品詳細

内容紹介
販売会社/発売会社 河出書房新社
発売年月日 2010/09/05
JAN 9784309463421

千のプラトー(上)

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商品レビュー

4.6

7件のお客様レビュー

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2014/11/01
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[ 内容 ] <上> ドゥルーズとガタリによる最大の挑戦にして未だ読み解かれることない比類なき名著。 リゾーム、アレンジメント、抽象機械、リトルネロ、戦争機械など新たな概念を創造しつつ、大地と宇宙をつらぬいて生を解き放つ多様体の思考。 器官なき身体/存立平面から“機械圏”へ―来たるべき民衆のための巨大な震源。 <中> ドゥルーズ/ガタリによる極限的な思考の実験。 中巻では顔貌性、そして逃走線の考察から生成変化をめぐりつつ、宇宙の時を刻むリトルネロへ向かい、絶対的な脱領土化の果ての来たるべき生、来たるべき民衆を問う。 <下> 遊牧民が発明した「戦争機械」は国家の外部にあり、国家をたえず危機に陥れる。 「国家装置」はそれを捕獲し、労働を発明し、やがて資本主義の公理系と結び合う。 しかし戦争機械とマイノリティの革命的な生成変化がやむことはない。 かつてない国家、戦争、技術、資本への問いから、平滑空間/条里空間の考察を経て非有機的生に向かう壮大な歴史哲学。 [ 目次 ] <上> 1 序―リゾーム 2 一九一四年―狼はただ一匹か数匹か? 3 BC一〇〇〇〇年―道徳の地質学(地球はおのれを何と心得るか) 4 一九二三年十一月二〇日―言語学の公準 5 BC五八七年、AD七〇年―いくつかの記号の体制について 6 一九四七年十一月二八日―いかにして器官なき身体を獲得するか <中> <下> 一二二七年―遊牧論あるいは戦争の機械(国家の二つの極;戦争機械の外部性と還元不可能性;戦士 ほか) BC七〇〇〇年―捕獲装置(旧石器時代の国家;原始的集団、都市、国家、世界的な組織;先取りする、祓いのける ほか) 一四四〇年―平滑と条里(技術的モデル(繊維製品) 音楽モデル 海洋モデル ほか) 結論―具体的規則と抽象機械 [ 問題提起 ] [ 結論 ] [ コメント ] [ 読了した日 ]

Posted by ブクログ

2012/10/31

序章の「リゾーム」は全体の概観を示す。まずこの小片が書かれて発表され、本書に繋がった。ここだけで「アンチ・オイディプス」とは比較にならないほどの射程と奥行きをもっているのがわかる。新しい語が唐突に用いられるので(リゾーム?脱領土化?器官なき身体?強度?存立平面?)、ごく一般的な生...

序章の「リゾーム」は全体の概観を示す。まずこの小片が書かれて発表され、本書に繋がった。ここだけで「アンチ・オイディプス」とは比較にならないほどの射程と奥行きをもっているのがわかる。新しい語が唐突に用いられるので(リゾーム?脱領土化?器官なき身体?強度?存立平面?)、ごく一般的な生活をしている人には「浮いている」ので馴染みずらいか。まず書き方に慣れ、全体を通読、あるいは結論意外の章を[「結論だけはおわりに読むべきである」※冒頭の緒言より]好きな順に、開いた順にでもとにかく通読すること。細かい意味はあまり気にせずに、何度か通読して全体に慣れること。そうすると、この書物全体が地図であることがわかる[p18]ので、次は現在地と目的地を確認するだけだ。これが「千のプラトー」の意義、活用法であって、従来の哲学書のイメージを覆す。ほとんどハウツー本。 なぜ、何度か通読する必要があるのかというと、この書物自体が帰結ではなくドゥルーズとガタリの手探り感がある生き生きとした思考の過程そのものの提示であるような、悪く言うと「曖昧な」書き方に貫かれているからだ。例えば、捨てられる、あるいは潜り込んでしまうイメージの概念もたくさんある[「それらを網目組織と呼ぶことにしよう」p25などは、このあとほとんど用いられない]ところ。でもそれは、やっつけ仕事などではなく、序章で示されたように「リゾーム」としての書物だから。言い方は厳密ではないが、「活用してもらう」ことこそ、彼らの願いであったはず。様々な新しい概念のキワが絶妙にぼかされていて、読み手の可変的(可塑的)な解釈を許す(=柔軟性がある)ので、絵画にも近い。

Posted by ブクログ

2012/04/08

田舎の純朴な少年がドゥルーズ=ガタリなんて知るはずもなく、いざ大学に入ってみればそれを当然に読んで議論できる秀才たちはごろごろいて、到底埋まりそうにない格の違いにキャッチアップも早々に諦めて平穏無事に終わった学生生活も今は昔、それを今になって読むというのも感慨深い。 さて、その...

田舎の純朴な少年がドゥルーズ=ガタリなんて知るはずもなく、いざ大学に入ってみればそれを当然に読んで議論できる秀才たちはごろごろいて、到底埋まりそうにない格の違いにキャッチアップも早々に諦めて平穏無事に終わった学生生活も今は昔、それを今になって読むというのも感慨深い。 さて、そのドゥルーズ=ガタリの「千のプラトー」、副題の「資本主義と分裂症」は前作「アンチ・オイディプス」から引き継いでいるものの、その思想は分裂症分析から大きく離れてあらゆる方向へと広がっていく。広がり蛇行しながらぎりぎりの表現を試みつつより壮大な資本主義分析、資本主義批判が展開される。 それは、変化の哲学であり、より具体的には強度・速度の哲学であり、つまりは微分の哲学。中心を持たないリゾームをはじめとして、システムそのもののダイナミズムこそが思想の核心となる。その過程はコード化ー脱コード化ー超コード化、及び領土化ー脱領土化ー再領土化というプロセス、その背後に存在するメカニズムこそが器官なき身体という欲望の体系。 とにかく特異で強烈な文章ではあるけれど、根っこのとこはマルクスからの系譜を受け継いで、その後の思想の通過点になってるんだってことがよくわかる。 資本主義のダイナミズムという視点はまさにマルクスが抱えていた問題意識の直接の承継。超コード化や再領土化に至るプロセスは形式的には止揚を思い起こさせるが、これもマルクスがヘーゲル左派の影響を受けていたことを考えれば納得感がある。 そして、80年代のニューアカの論者たちが依拠した理論的支柱の一つがドゥルーズ=ガタリだったし、21世紀において超コード化や再領土化の概念はグローバル資本主義と繋がりネグリ=ハートの<帝国>論として結実する。 資本主義批判の文脈からも現代思想の文脈からもドゥルーズ=ガタリを避けて通ることはできないのは間違いない。 と整理してみたものの、まあ、書いてあることの9割がたはわけわからなくて、たぶん一生理解できなさそうなのだが、わからないなりにすごい本だってことだけはわかる。そしてなにより文体の密度や緊張感、どこに連れて行かれるかわからないスリル、そんなものを楽しむだけでも読む価値のある本だと思う。

Posted by ブクログ

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