商品詳細
内容紹介 | |
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販売会社/発売会社 | 青土社 |
発売年月日 | 2010/05/27 |
JAN | 9784791765386 |
- 書籍
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宗教とは何か
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宗教とは何か
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4.2
7件のお客様レビュー
宗教とは何か (和書)2010年10月01日 15:32 テリー・イーグルトン 青土社 2010年5月25日 柄谷行人さんの書評から読んでみました。 対抗運動という視点でみるととてもよく読み解ける。 神学と言えば佐藤優さんですが、神学のあり方がとても有益に吟味されている。...
宗教とは何か (和書)2010年10月01日 15:32 テリー・イーグルトン 青土社 2010年5月25日 柄谷行人さんの書評から読んでみました。 対抗運動という視点でみるととてもよく読み解ける。 神学と言えば佐藤優さんですが、神学のあり方がとても有益に吟味されている。 それは対抗運動を導く貴重な視点であると思いました。 マルクスというものは、対抗運動としてある。 決してユートピアではないと言うことを考えさせられた。 宗教の対抗運動としての資質を柄谷さんは「世界史の構造」で明確に示している。 そういう意味で、この本の面白さもあるように感じた。
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講演録をまとめたものだからか、散文詩のような表現。 全体的にドーキンスとヒッチンスに対する反論なのだが、その言説は当を得ているし、論を反するだけではなく、信仰の本質をあぶり出している。 第1章は宗教と科学の関係を考えるにあたって示唆に富んでいる。 第2章は、ドーキンスに象徴...
講演録をまとめたものだからか、散文詩のような表現。 全体的にドーキンスとヒッチンスに対する反論なのだが、その言説は当を得ているし、論を反するだけではなく、信仰の本質をあぶり出している。 第1章は宗教と科学の関係を考えるにあたって示唆に富んでいる。 第2章は、ドーキンスに象徴される合理的な世論が宗教を否定・無視し、嘲笑している態度によって、イスラム原理主義のテロは起こっていると指摘。宗教がはらむ非合理性、道徳性を擁護しつつ、それを無視して、なにが平和だと舌鋒は鋭い。 第3章は、誤解されがちな信仰の本質をえぐる。 第4章は、多元主義の悪い面が際立った現代を語る。 P20/キリスト教はそもそも、なにかについての説明たることを意図されていない。 P35/わたしたちは、宗教という特殊な装置によって救われるのではなく、わたしたちの日常生活における人間関係の質によって救われるのである。 P36/男女は動物を生け贄に捧げたり、食事制限をしたり、非の打ち所のない善行を重ねたりすることで、神のご利益が得られるわけではない。神が、彼らを、その道徳的に不純であることも含め、すべてをとにかく愛していることである。 P80/聖書にもとづくキリスト教と、イデオロギー的キリスト教との区別 P154/バデイウは、信仰とは、物事のありようを記述することよりも、そもそも愛ある関与をつまびらかにするものであるという主要点をしっかりおさえている。 P163/リベラリズムは、みずからの基盤となる根本原則のことになると、過度にリベラルになれない。 P178/わたしたちのある種の関与は、いまのわたしたちを構成するものであるため、わたしたちが、そうした関与を変更しようと思うなら、伝統的にキリスト教が回心と呼ぶような過程を経なければならないのであって、それは、ある意見を別の意見に取り換えるだけでは済まないような大事なのである。 P187/キャサリン・ギャラガによれば、小説を読むことは、信条にとらわれない態度をはぐくむのにぴったりの想像力の訓練であるという。
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イーグルトンは昔、『文学とは何か』を読んで、ただの優秀なだけの人ね、というイメージを抱いていたのだけど、けっこう「理性の限界」とか、「悲劇的なもの」とかいうことについて、ちゃんと考えている人なのだというのがわかり、なんか意外だった。まあ、やはりアイリッシュという出自とともに、古典...
イーグルトンは昔、『文学とは何か』を読んで、ただの優秀なだけの人ね、というイメージを抱いていたのだけど、けっこう「理性の限界」とか、「悲劇的なもの」とかいうことについて、ちゃんと考えている人なのだというのがわかり、なんか意外だった。まあ、やはりアイリッシュという出自とともに、古典文学についての教養を積み上げているゆえなのだろうと思う。 『Reason, Faith and Revolution』という原題に示されているように、これは「文明」と「宗教」と「政治」の話なのだけど、核心となるのは、そうした人間の営みは常に、「暴力」を根底的に含むものであるとの認識だと思う。 たとえば・・・ 「人間の文明は、とりわけ、かなり細部にいたるまで、暴力と攻撃性の『高尚な』あるいは昇華された形態なのである。ラディカルな思想によれば、野蛮は、わたしたちが文明と呼んでいるかけがえのないものを密かに可能にする成立条件のひとつ、あるいはかろうじて隠されている文明の裏面のひとつでありつづけている」(126頁) といった記述に、そうした認識がみとめられる。 そして「文明と文化の葛藤」という対立項を立てるとき、イーグルトンは「文化」を「新たな野蛮の形式」としてとらえている。 「文化が表明するものとは、肝臓や膵臓と同じく、わたしたちのなかにあらかじめ組み込まれていることがあきらかな、検証を経る必要のない忠義なり忠誠心めいたもので、極端な場合には、男女とも、その大義のもとに人殺しも辞さないのである。」(196-197頁) ここで、ふつうの意味で「文化」と言われるようなものを思い浮かべてはダメで、むしろイーグルトンの区別によれば、そういうものは「文明」の範疇に入ることになるだろう。 「植民国は文明であり、これにたいしてほとんどの被植民地あるいは旧植民地は文化ということになる」(197頁)とも言っているように、近代西欧の合理主義的な思想をよりどころとして成立したものは、だいたい「文明」の側に属することになる。 ここでイーグルトンが定義する「文化」とは、そのために「人殺しも辞さない」だけでなく、そのために「自死をいとわない」ほどの忠義心を抱かせるような、何かである。 日本は西欧の「植民地」になったことはないが、かつては「文化」を持っていた国だったといえる。具体的に言えば、戦前までだ。それが「文化」を喪って「文明国」になってゆくのを三島由紀夫はいたく悲しんで、このような心情を吐露した。 「私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。このまま行ったら『日本』はなくなってしまうのではないかという感を日ましに深くする。日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済大国が極東の一角に残るのであろう。それでもいいと思っている人たちと、私は口をきく気にもなれなくなっているのである。」
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