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増補 虚構の時代の果て ちくま学芸文庫
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商品詳細
内容紹介 | |
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販売会社/発売会社 | 筑摩書房 |
発売年月日 | 2009/01/10 |
JAN | 9784480091970 |
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増補 虚構の時代の果て
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増補 虚構の時代の果て
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商品レビュー
3.9
15件のお客様レビュー
後半が難しすぎて分からん 俺にとっては文章が長いし、難解な定義の言葉がおおい。 いつか読めるようになるんかなこれ
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読んでいる間じゅう、「なんでこんなバカモノども(オウム)の与太話に真面目に付き合わにゃならんのや……」という思いが頭から離れなかった。たしかに、著者が〈補論 オウム事件を反復すること〉で述べるように、「フロイトを乗り越えるためには、フロイトが提起した問い、フロイトの思考を駆動した...
読んでいる間じゅう、「なんでこんなバカモノども(オウム)の与太話に真面目に付き合わにゃならんのや……」という思いが頭から離れなかった。たしかに、著者が〈補論 オウム事件を反復すること〉で述べるように、「フロイトを乗り越えるためには、フロイトが提起した問い、フロイトの思考を駆動した謎を、フロイト以上に徹底して探究し、フロイトが挫折した地点を越えて前進するしかない」のかもしれないが、それはフロイトの思想が現代社会において今なお重要であるのと同じように、オウムがわれわれにとって重要であるという前提があっての話だろう。著者はオウムの存在が重要であるという理由を、オウムが現代日本社会の合わせ鏡のような存在だからだと言っているように取れたのだが、私は個人的にはこのような考え方には与したいとは思えない。オウムが徹頭徹尾くだらないのと同様に、オウム事件に対して陰謀史観的報道をくり返していたジャーナリズムもやはりバカの集団としか思えなかったからだ。 というわけで、そもそもの前提から著者の議論についていけていないので、あらためてちゃんと読み直さないといけないなあと思った。ただこの本でオウムを論じる補助線として置かれている連合赤軍や見沢知廉の『天皇ごっこ』についてよく知らなかったり未読だったりするので、そっちを勉強してからのほうがいいかもしれない。
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社会学者の大澤真幸(1958-)による社会評論、原著は1996年、増補は2009年。 オウム真理教による一連の事件を日本の戦後精神史のうちに位置付けようとする試み。大澤は、師である見田宗介に倣い、当該社会における「現実」が如何なる「反現実」に準拠してしているのかという観点から、...
社会学者の大澤真幸(1958-)による社会評論、原著は1996年、増補は2009年。 オウム真理教による一連の事件を日本の戦後精神史のうちに位置付けようとする試み。大澤は、師である見田宗介に倣い、当該社会における「現実」が如何なる「反現実」に準拠してしているのかという観点から、日本の戦後史を「理想の時代」「虚構の時代」(さらに2008年の著書では、これに「不可能性の時代」が続くと論じている)と区分する。そして、「理想の時代」(の極限)の症候として1972年の連合赤軍事件を挙げ、それを参照しながら、「虚構の時代」(の極限)における症候として1995年の地下鉄サリン事件をはじめとするオウム真理教事件を捉え、現代社会の精神史的状況を描き出そうとする。 □ 現実は〈虚構〉の上に成立する 世界は諸個物の無秩序的で混沌とした生成流転のうちにあり、そのままでは理性はそこに一切の意味を見出せず、何らかの認識に到達することは不可能である。理性が、諸個物の間にある共通性を仮構し、その共通性によって諸個物を grouping することで、「具体的な個物 a は抽象的な概念 A である」という認識が可能となる。具体的な諸個物は、諸個物から抽象化された普遍性をもった概念によって、意味を付与される。 このように概念とは、認識以前の物自体のうちに実体として存在するのではなく、認識を成立させるために便宜的に事後的な仕方で持ち出される云わば〈虚構〉である(唯名論)。つまり現実は〈虚構〉の措定によって初めて意味を付与される。概念のこうした〈虚構〉性を忘却し、それがあたかも世界の内に予め実体的に与えられている(実念論)とする錯誤を、「物象化」と呼ぶ。 〈虚構〉の物象化(実念論的錯誤?)を通して、〈虚構〉は現実と無媒介に一致してしまう。現実が〈虚構〉へと反転してしまう。本書では、さらに現実と〈虚構〉との関係を考察する上で、他者の存在が重要な要素として見出され、大澤独自の概念である「第三者の審級」「〈超越性〉」の議論に入っていくことになるが、そこから先は十分に理解することが出来なかった。 □ 「理想の否定」の果てに「理想の否定という理想」 資本主義も依拠している近代的な時間意識が、理想とその否定という無際限の運動を惹き起こし、ついには一切の積極的な理想の絶対的否定を導きながら、しかしその絶対的否定が「世界の全的な否定」という積極的措定へと反転して立ち現れることになる過程が論述されているのだが、必ずしもあらゆる積極性が自己否定の無際限の運動において否定神学的に無化されるわけではないという点が興味深かった。 ① 近代的な時間意識は、目的‐手段連関の実効性を確保するために、時間に無限性と直線性の構造を要請する。 ② 目的‐手段連関が確保された時間構造において、或る時点における理想(目的)の価値は、ヨリ未来に措定される別の理想(目的)を実現するための手段として評価されることになり、この無限列の中で理想(目的)の価値は無際限に相対化され続ける。則ち、理想(目的)の価値を根拠づける〈超越性〉(「世界はかくあるべし」という規範の根拠)の権威が減殺し続ける。 ③ 理想(目的)は暫定的なものであり続けるため、世界の究極的な理想(目的)の実現=世界の終末は、無限遠に先送りされ、有限的な人間は決してそこに到達することができない。則ち、世界と生の意味を根拠づける〈超越性〉は永続的に減殺され続け、ニヒリズムに陥る。 ④ 生の意味を根拠づける〈超越性〉を回復するためには、如何なる目的‐手段連関にも属することのないような、別の如何なる理想(目的)のための手段ともなり得ないような、それゆえに如何なる相対化も被らないような、絶対的に孤絶したそれ自体で〈超越的〉な理想(目的)を措定するしかない。 ⑤ 則ち、「世界の全的な否定」という理想(目的)が要請される。 □ 本書は自らが属する社会の或る深刻な一面を剔抉しようとする試みであり、オウム真理教事件の同時代人として相応の痛切さをとともに読まなければならないのかもしれない。しかし私は、これを哲学や思想史の用語を用いて現代社会の諸現象を首尾よく説明しようとする一種の「知的遊戯」として、それこそミステリやSFなどのフィクション(虚構)を読むにと同様に、本書を消費してしまっていることに気づいた。
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