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政治と複数性 民主的な公共性にむけて
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商品詳細
内容紹介 | |
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販売会社/発売会社 | 岩波書店 |
発売年月日 | 2008/08/30 |
JAN | 9784000236782 |
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政治と複数性
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政治と複数性
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商品レビュー
4.5
5件のお客様レビュー
鍵は他者の声を聴きとる「感性」に http://book.asahi.com/reviews/reviewer/2011071703627.html
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内容的には「公共性」とかぶるが、論文らしく、こちらはかなり詳しく書かれている。 時間と気力のある人はこっちを読んだほうがいいかもしれない。
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- ネタバレ
※このレビューにはネタバレを含みます
意見と意見の交換には、人びとが自らは経験しえぬ他者の異質な「世界の現れ」に触れるという契機が含まれており、それが政治的生活の内在的価値を構成する。したがってそれは、意見の複数性を何らかの仕方で―単一の真理であれ、歴史のテロスであれ―排気するようなあらゆる試みに抵抗する。(p.10) 社会統合の源泉は、歴史的に形成されてきたアイデンティティの共有ではなく、同様に歴史的に形成されてきた理由の共有に求められるべきであり、市民の間に連帯感や相互の信頼を滋養するのは国民共同体への共属の感情ではなく、相互の規範的主張に対する応答の反復であり、また、政治社会の基本的な規範や制度への忠誠や愛着は、それらによって自らが公正に扱われる経験の積み重ねから生じるものであり、疑似自然的なアイデンティティの共有によってもたらされるものではない、ということである。ナショナル・アイデンティティの再構築を求めるリベラル・ナショナリズムの議論は、社会統合に走る亀裂をその内側から修復するのではなく、その外側から埋めようとする試みだと言えるだろう。(p.63) 聴くという行為は、おそらく見ること以上に、自らをヴァネラブルにする行為である。というのも、聴くという行為は、他者の声や言葉を、他者にとっての世界の受けとめ方を自らのうちへ引き入れる行為であり、他者と自己の間にある差異や抗争のみならず、自己と自己との間の抗争をも露わにする行為だからである。(p.96) 公共性の領域とは他者が現前する空間であり、私的領域とは他者が奪われた空間である。人びとのアイデンティティは、自らの現われを受けとめ、それに応答を返してくれる他者の存在に依存している。(p.120) 他者は私にとって、私の配慮や支援なしには生を保ちがたい、傷つきやすく不安に充ちた存在者であると同時に、私のものではありえない経験やパースペクティブをもち、世界の別の面について語る政治的な存在者でもある。(p.124) 「生のリスク(risk)」「生の偶然性(contingency)」「生の脆さ(vulnerability)」「生の複数性」。社会的連帯の第四の理由は、適切な生活保障は人びとがより自由に自らの生を生きることを可能とし、多様な生き方を導くというものである。生活保障を欠く場合、あるいはそれが十分でない場合、人びととの関心やエネルギーは生き延びていくこと、明日の生計を立てていくことに集中せざるをえない。一日の大半を水を汲み、生きる糧を得るために費やさざるをえない子どもたちは読み書きや計算の力を身につけることはできず、そのことは彼女たちの実質的自由(生き方の幅)を著しく制約するだろう。また、ケアが私事化されている条件のもとで、介護や育児のために余力を奪われる人びとも、やはり自ら自身の生を生きる機械を大幅に失わざるをえないだろう。(p.186) 政治文化の継承という集合的責任に関して。 ドイツ人の生の精神的な条件のうちにこのような体制を生ずべき可能性が備わっていたということに対して、私たちはみな共同責任(Mitschuld)を負っている。だからといって、「ドイツの思想世界」「過去のドイツ的な考え方」がとりも直さずナチズムの悪行の源泉だなどということを承認せねばならないということにはけっしてならない。けれども、それは、私たちの民族としての伝統のうちに、私たちの倫理的破滅(sittliches Verderben)となるような、すさまじくかつ危険な何かが潜んでいることを意味する。(K.ヤスパース『戦争の罪を問う』) 後から生まれた者であっても、あのことが可能となった生活形式のうちで生い育っているという単純な事実は依然として存在している。アウシュヴィッツを惹き起こした生のあり方と私たち自身の生が結びついているのは、偶然ゆえではない。この結びつきは内的なものである。私たちの生活形式は、私たちの両親や祖父母のそれとつながっている。家庭や地域での伝統、政治的な、さらには知的な伝統が解きほぐしがたく複雑に絡み合った網の目によってつながっている。要するに、歴史的環境によってつながっており、それによってこそ私たちは、自分たちが今日あるところの存在となっているのである。……こうした責任(ヤスパースのいう意味での共同責任)のなにがしかは、次の、そしてさらにその次の世代にも受け継がれていくものなのではないだろうか(J.ハーバーマス『過ぎ去ろうとしない過去―ナチズムとドイツ歴史家論争』)。(p.226-227) 戦後世代が集合的責任を担うべき理由は、私たちが、数多くの不正義を刻んだ具体的な歴史的関係性を先行する世代から継承し、私たち自身もそうした関係性をすでに生きてしまっているという事実にあると思う。(p.232)
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