- 新品
- 書籍
- 文庫
トポフィリア 人間と環境 人間と環境 ちくま学芸文庫
1,980円
獲得ポイント18P
在庫なし
発送時期 1~5日以内に発送
商品詳細
内容紹介 | |
---|---|
販売会社/発売会社 | 筑摩書房 |
発売年月日 | 2008/04/11 |
JAN | 9784480091413 |
- 書籍
- 文庫
トポフィリア 人間と環境
商品が入荷した店舗:店
店頭で購入可能な商品の入荷情報となります
ご来店の際には売り切れの場合もございます
お客様宅への発送や電話でのお取り置き・お取り寄せは行っておりません
トポフィリア 人間と環境
¥1,980
在庫なし
商品レビュー
4
4件のお客様レビュー
[ 内容 ] 人間はなぜ眺望に魅了されるのか。 なぜ故郷に愛着をもつのか。 トポフィリア―“場所愛”。 環境と人間との情緒的なつながりを表すこの画期的な概念を、人間主義地理学者トゥアンは本書で提唱した。 ダ・ヴィンチの渓谷描写からロサンゼルスの高速道路まで、古今東西の具体例をあげ...
[ 内容 ] 人間はなぜ眺望に魅了されるのか。 なぜ故郷に愛着をもつのか。 トポフィリア―“場所愛”。 環境と人間との情緒的なつながりを表すこの画期的な概念を、人間主義地理学者トゥアンは本書で提唱した。 ダ・ヴィンチの渓谷描写からロサンゼルスの高速道路まで、古今東西の具体例をあげて、人間の環境に対する認識・態度・価値観をくまなく探究し、理想の場所をもとめてやまない人間の営為を、まったく新しい視点から読みなおす。 建築・都市計画・自然・環境論に関心をもつすべての人々にとって必読の基本図書、待望の文庫化。 [ 目次 ] 知覚の一般的特徴―感覚 一般的な心理構造と反応 自民族中心主義・対称性・空間 私的な世界―個人の違いと嗜好 文化・経験・環境への態度 環境・知覚・世界観 トポフィリアと環境 環境とトポフィリア コスモスから景観へ 理想都市と超越性の象徴 物理的環境と都市の生活様式 アメリカの都市―象徴体系・イメージ像・知覚 郊外とニュータウン―環境の探求 要旨と結論 [ 問題提起 ] [ 結論 ] [ コメント ] [ 読了した日 ]
Posted by
この人の本は先日『空間の経験』という論文集を読んだばかりだが、こちらはもっと哲学的な思索を込めた、まとまりのある一つの作品という感じである。 人間と環境(自然、街、都市など)とのあいだの、多分に人間の主観性にもとづく関係の、諸処の在り方について、詳細に追ってゆく。 そこには人類学...
この人の本は先日『空間の経験』という論文集を読んだばかりだが、こちらはもっと哲学的な思索を込めた、まとまりのある一つの作品という感じである。 人間と環境(自然、街、都市など)とのあいだの、多分に人間の主観性にもとづく関係の、諸処の在り方について、詳細に追ってゆく。 そこには人類学の豊富な収穫が生かされているし、世界中あちこちの文化の相を広範に活写している。 読みやすくて楽しい好著である。 ただし、私なら「環境」(人間主体との対立項として機能する概念)ではなく、「場所」(空間と時間を含んだ、人と人、人と物との<あいだ>の変転する<できごと>)という語を使うだろう。
Posted by
東大教授が新入生に進める本、で興味を持って読んだ。友人に「わら一本の革命」を勧められて読んだのだけれど、このこの著者を思い出した。以前心を打って抜き書きした文を書きます。そうか、彼は無垢な田園を求めているのだけれど僕はまだコスモスを求めているんだ。 -要旨と結論 より 人間...
東大教授が新入生に進める本、で興味を持って読んだ。友人に「わら一本の革命」を勧められて読んだのだけれど、このこの著者を思い出した。以前心を打って抜き書きした文を書きます。そうか、彼は無垢な田園を求めているのだけれど僕はまだコスモスを求めているんだ。 -要旨と結論 より 人間は執拗に理想的な環境を探し求めてきた。文化によっていかに違って見えようとも、それは本質的にいえば二つの正反対のイメージを作り出してきたように思われる。すなわちそれは、無垢な田園とコスモス(宇宙)なのだ。大地の実りは安定をもたらす。星星の調和が安定と、そしてさらに壮大さをももたらすように。それゆえに、われわれは一方から他方へ移るのである。バオバブの下の木陰から天空の下の魔法の円へ、家から公共広場へ、郊外から都市へ、海岸での休日から洗練された美術の鑑賞へ、この世界には無い平衡点を探し求めながら。 第五章 私的な世界-個人の違いと嗜好 -子供と世界への開放性 より 大人にとって、雨上がりの眺めの新鮮さや、朝食前の血糖値が低い時のコーヒーの強い香りや、長い病気の後の健康回復期における世界の刺激性に見られるような、自分が失ってしまった、感覚的な印象の新鮮さを取り戻すのは偶発的な例外を除いては難しい。7・8歳から十代の初めまでの子供は、時間の大部分をその鮮明な世界で生きている。よちよち歩きの幼児と異なり、大きくなってしまった子供は、すぐ近くの物体や環境に結び付けられてはいない。彼(彼女)は、さまざまな次元で空間を概念化できる。また彼(彼女)は、色の微妙さを識別し、線と量の調和を認識できる。彼(彼女)は、大人の概念能力の大部分を持ってるのだ。彼(彼女)は、景観を、「向こうにある」巧妙に配置された現実の一部としてみることができるが、同時にそれが、包み込み浸透してくる存在、すなわちひとつの力であることを知っている。世俗的な関心を背負っていないので、学習に縛られていないので、根深い慣習から自由なので、時間を気にしないので、子供は世界に対して開放的なのだ。フランク・コンロイは、彼の自伝的小説である「ストップ=タイム」の中で、たとえ最もありふれたタイプの環境でも、それを経験することにとって、このような子供らしい開放性が何を意味するかを描いている。作者は、このとき十三歳の少年で、自転車に乗っていたが、特にどこに行くわけでもなかった。 最初のガソリンスタンドで、私はコークを買うために立ち止まり、タイヤの空気圧をチェックした。私はガソリンスタンドが好きだった。好きなだけぶらついていられたし、それに誰も注意なんかしなかった。壁にもたれて、日陰になった地面の一角にすわり、コークを少しずつすすって、長くもつようにした。 世界に向かって開いていたのは、子供時代の無頓着さだったのだろうか。今日、ガソリンスタンドでは何も起こらない。私は、立ち去ろうとし、目的地へ行こうとする。そしてスタンドは何か巨大な紙の切り抜き、あるいはハリウッドの映画のセットのようで、単なるうわべだけのものにすぎない。しかし、十三歳で壁にもたれて座っていたとき、そこはすばらしい居場所だった。ガソリンの良い匂い、出入りする車、空気用ホース、背後でざわめく半ば聞こえる音――これらが、音楽のように空気にまとわりつき、私を幸福感で満たしたのだ。十分間で、私の心は、自動車のガソリンタンクのように満タンになったものだった。
Posted by