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釜ケ崎と福音 神は貧しく小さくされた者と共に
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釜ケ崎と福音 神は貧しく小さくされた者と共に

本田哲郎【著】

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釜ケ崎と福音 神は貧しく小さくされた者と共に

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商品詳細

内容紹介
販売会社/発売会社 岩波書店/岩波書店
発売年月日 2006/03/30
JAN 9784000224635

釜ケ崎と福音

¥2,860

商品レビュー

4.6

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2016/10/05

「神は人が貧しくあることをよしとしているのではありません。貧弱だからこそ、神がご自分の力をその人たちに託し、自分たちが貧しさ小ささから立ちあがって、まわりの人々を解放しつつ、共にゆたかになっていけるように定めているということです」33頁。 「別にあなたが貧しくなる必要はない、貧...

「神は人が貧しくあることをよしとしているのではありません。貧弱だからこそ、神がご自分の力をその人たちに託し、自分たちが貧しさ小ささから立ちあがって、まわりの人々を解放しつつ、共にゆたかになっていけるように定めているということです」33頁。 「別にあなたが貧しくなる必要はない、貧しくなる競争などしなくていい。小さくなる競争をしなくていい。ただ、自分ではなくこの人の持つ感性のほうが本物だという、そういう関わりをしてください」37頁。 「いまのわたしは、釜の労働者から受け入れてもらっていますが、それはわたしが本気で相手の話に耳を傾ける気になったときからです」55頁。 「本物の洗礼を受けた人には、キリストと同じ力ーー人を励ます力、悲しんでいる人に喜びを喚び覚ます力があるのです」75頁。 「ほんとうにだれかの支えが欲しいとき、助けてもらいたいとき、ただ明るい人、喜びいっぱいの人というのは何の役にもたちません。痛みを知っている人こそが、力を与えてくれるのです」82頁。 「洗礼を受けようが受けまいが、天の父が、一人ひとりをこの地上に『おいで』と呼んでくださった。そのすべての人はキリストの体の部分として存在している」85頁。 「選びとは何か?もちろん、選ばれたその人たちだけを救おうという、そういう選びではありません。その人たちをとおしてすべての人が神のいのちに生かされるようになる、そのための選びなのです」94頁。 「『心の貧しい人々は幸いである』の『幸い』も、やはり誤訳だと思います。・・・『マカリオイ』というギリシア語は、ヘブライ語の『アシュレー』、つまり『祝福されています』、『そのままつきすすんでいいよ』という保証、元気づけのことばです」101頁。 「自分のその小さくされているがゆえにとぎすまされた感性、本物と偽善を見分ける洞察のするどさ、それが塩味なんだよ、と」104頁。

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2014/11/06

布教は宗教の命だというが、著者は神父でありながら布教のために命をかけるような様子がかけらもない。 帰依したいというひとにやめた方がいいということすらあるのだという。 この人は間違いなく、宗教は人間の幸福のためにという、目的と手段を心得た良心のある宗教者なのだろうと思う。 著者...

布教は宗教の命だというが、著者は神父でありながら布教のために命をかけるような様子がかけらもない。 帰依したいというひとにやめた方がいいということすらあるのだという。 この人は間違いなく、宗教は人間の幸福のためにという、目的と手段を心得た良心のある宗教者なのだろうと思う。 著者は神学も語学もプロフェッショナルであるが、読み手の事を配慮しているので私のような素人にもわかりやすくとても読みやすい。 おそらく読者は著者の熱い魂を感じ、二択を迫られる。 我々の住む日本では釜ヶ崎にいる人たちをはじめとした「貧しく小さくされた」人たちを大量に生産し続けている。明日は我が身と思い、この人たちと寄り添えるのかどうか、それとも冷たい権力の側にいるのか、その選択を迫られることになる。

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2013/03/08

著者はカトリックの神父。現在は釜ヶ崎で活動を続けている。そう書くと、いかにも善意の宗教家がホームレスのたむろする地に赴き、熱心に布教活動を行う図が目に浮かぶが、よくある宗教者像を想い描くとまちがう。 巻頭に一枚の絵が置かれている。炊き出しの列に並ぶイエスを描いたものだ。ふつう貧...

著者はカトリックの神父。現在は釜ヶ崎で活動を続けている。そう書くと、いかにも善意の宗教家がホームレスのたむろする地に赴き、熱心に布教活動を行う図が目に浮かぶが、よくある宗教者像を想い描くとまちがう。 巻頭に一枚の絵が置かれている。炊き出しの列に並ぶイエスを描いたものだ。ふつう貧民救済活動は、恵まれた側がそうでない者に神を通じて与えられた喜びを分かち与えるという趣旨に基づいて行われている。もし、そうなら、神は与える側にいるはず。ところが、この絵では与えられる側にいる。施しを受けなければならぬほど、貧しく小さくされた者と共に、神はいられるのではないか、それが画家の直観であり、著者の思いでもある。 生まれた時からのクリスチャンで、よいことをして人にほめられるのがうれしくて努力を続けてきた。著者はそういう自分を「よい子症候群にかかっていた」と語る。しかし、神父になり、信者と接するようになると、こんな外づらばかりよい自分でいいのかという疑問を抱くようになった。いくら祈っても変わらない自分を変えてくれたのは、釜ヶ先での出会いだった。 路上生活者に毛布を配る活動をしていた時、こわごわ配った毛布に「にいちゃん、すまんな、おおきに」と言ってくれた人がいた。東京に帰ってしばらくすると、自分の中で何かが変わっていることに気づく。こだわりがとれ、軽くなっているのだ。ためしに今度は山谷に行ってみた。そこでも同じような経験をする。神は、与える側ではなく、貧しく小さくされた人々の中にいて、そこから私たちを解放してくれるのではないか。そう考えるようになったのだ。 これは今まで聖書を通じて教えられてきたこととは逆転している。しかし自分の体験は、これが真実であることを語っている。著者はヘブライ語やギリシァ語の辞書と首っ引きで聖書の原典にあたってみた。すると、イスラエルの民も、イエスも、その家族や仲間たちも皆、寄留者や罪びととされるような最下層の人々であった。 マリアは夫ヨセフのではない子を孕んだため共同体に受け入れられず家畜小屋でイエスを生まねばならなかった。その時祝ってくれたのは、卑しい職業とされていた羊飼いや、不毛と貧困のシンボルであった「東」から来た異教の占い師たちだけであった。ヘブライ語やギリシァ後の語義にこだわり、当時の状況というコンテキストを重視した聖書読解は、大胆な聖書の読み替えを迫るもので、生々しいイエス像の創出は、スリリングでさえある。 しかし、著者が世の一般の宗教者と一線を画すのは、ここからである。貧しく小さな者たちの中にこそ神がいるという考えは、宗教者にありがちな「弱者賛美」という倒錯に陥る危険がある。「貧しく小さくされた者」という著者の言葉には、何者かがそうしたのだという主張がこめられている。著者は、その原因を知り、そうしたものに対して怒りを持ち、闘えと説くのである。 「怒り」や「闘い」そのものが悪いのではない。虐げられている者に共感し、はらわたが突き動かされるような怒りを感じたとき、それをそらしてはならない、と著者は言う。ここには、時の権力者やそれにこびる者たち、或いは不正を知りながら他人事として見過ごす者たちへの「怒り」が溢れている。 イエスの生きた時代ばかりではない。現代にあっても富や権力の偏在が「貧しく小さくされた」人々を生み出す構造は変わらない。あなたは「貧しく小さくされた者」と連帯できるか、という厳しい問いかけが、読者に突きつけられている。安直な癒しなどを求めて手に取ると火傷をするかもしれない、熱い本である。

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