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映画への不実なる誘い 国籍・演出・歴史
2,420円
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商品詳細
内容紹介 | |
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販売会社/発売会社 | NTT出版 |
発売年月日 | 2004/08/20 |
JAN | 9784757140813 |
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映画への不実なる誘い
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映画への不実なる誘い
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ただただ映画が好きという人がいる。暇を見つけては、せっせと映画館に通う知人を何人も知っている。そういう人には、この本は薦められない。なぜ「不実なる誘い」というタイトルがついたかといえば、「ただ映画が好きというだけの人たちに批判的な視線を向けなくてはいけない」と筆者が思っているから...
ただただ映画が好きという人がいる。暇を見つけては、せっせと映画館に通う知人を何人も知っている。そういう人には、この本は薦められない。なぜ「不実なる誘い」というタイトルがついたかといえば、「ただ映画が好きというだけの人たちに批判的な視線を向けなくてはいけない」と筆者が思っているからである。 東大総長に就任して以来映画について語ることを自ら封印していた蓮実が、久しぶりに口を開いた、これは三回にわたる連続講演の記録に手を入れたものである。定評のある蛞蝓がのたくった跡に揺曳する燐光のような独特の文体は影をひそめ、聴衆を相手に実際に何本かのフィルムを見せながら、お得意の誇張法や反語法のレトリックを縦横に駆使しつつ映画について語るプロフェッサーは実に楽しそうだ。 「批判的肯定」という言葉を、筆者は好んで使用する。たとえば、戦争の世紀とも国際紛争と大量虐殺の世紀とも呼べば呼んでしまえそうな二十世紀を、われわれはそれでも批判的に肯定すべきであると。事実、音楽にしろ絵画にしろコンサートホールや展覧会場でわれわれが耳にしたり目にしたりするのは、19世紀の物の方が圧倒的に多い。文学にしても事は同じである。そんな中で悪名高い二十世紀を代表する物こそ映画なのだと、蓮実は言う。 しかし、われわれは大量に映画を消費してはいても、二十世紀を分析・記述する対象として映画を見る視線を所有しているとはいえない。二十世紀を戦争の時代として済ませないためにも、すぐれて二十世紀的な媒体である映画をどう見たらいいのか。「国籍・演出・歴史」という三つの切り口で、プロフェッサーの講義が始まる。 「映画に国籍はない」とよく言われるが、モーパッサンの『脂肪の塊』を翻案した映画が地元フランスだけでなく、ロシア、アメリカ、日本を始め、お隣の中国にまであることにまず驚かされる。普仏戦争を西南の役に翻案した溝口の『マリヤのお雪』からはじめ、それぞれのフィルムを実際に見ながら、その差異を明らかにしてゆくのだが、必ずしも原作の書かれたフランスの映画がすぐれている訳ではない。 それを蓮実はモルフォロジーとテマティックという二つの言葉を使って鮮やかに解析する。モルフォロジーとは、物語の形態論的な一貫性を言う。『脂肪の塊』を例にとれば、「不幸な、しかし心の豊かな女性が、危機を逃れて、同国人と共に危険地帯を馬車でくぐりぬける」ということになる。テマティックとは主題論的な一貫性を指し、この場合、貧しい女性の自己犠牲が多くの人々を救うということになるだろう。たしかにこの二つを充たしながら、その細部を置き換えることでどこでも映画を撮ることができる。 構造は同じでありながら異なる力を波及させる映画のこの作用を二十世紀的なものとしてとらえてくるあたりが、いかにも構造主義の波を現場でくぐった蓮実らしい。D・W・グリフィスは、映画は「女と銃さえあればできる」と言ったそうだが、蓮実は「男と女と銃」と言い換える。この銃を他の何かに置き換えるだけで映画は作れる。「映画とはごく僅かなもので成立するものだ」という原則を、ヒッチコックの『汚名』を例に「男と女と階段」の映画だとして解析する二部も面白いのだが、紙数が尽きた。 「映画はキスだ」という持論や、バーグマンに向けられる屈折した視線など、講演ならではのくつろいだ話しぶりにふだんの映画批評からは想像し辛い筆者の闊達な横顔がうかがえるのも楽しい。「ただ映画が好きというだけの人」にこそ読んでもらいたい一冊。
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