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キリストにならいて イミタチオ・クリステ
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キリストにならいて イミタチオ・クリステ

由木康(訳者)

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キリストにならいて イミタチオ・クリステ

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商品詳細

内容紹介
販売会社/発売会社 教文館
発売年月日 2002/07/05
JAN 9784764266339

キリストにならいて

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商品レビュー

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2008/08/02

烏兎の庭 第三部 箱庭 7.25.08 http://www5e.biglobe.ne.jp/~utouto/uto03/diary/d0807.html#0725

Posted by ブクログ

2006/10/27

著者(と言われている)トマス・ア・ケンピスは中世の神秘主義思想家。トマス・ア・ケンピスは本書において、中世における修道院的霊性の豊かさを証しし続けている。聖書の次に多く読まれてきたとも言われる本書は、プロテスタントの人々の間でも広く受け入れられてきたデボーション・テキストの古典的...

著者(と言われている)トマス・ア・ケンピスは中世の神秘主義思想家。トマス・ア・ケンピスは本書において、中世における修道院的霊性の豊かさを証しし続けている。聖書の次に多く読まれてきたとも言われる本書は、プロテスタントの人々の間でも広く受け入れられてきたデボーション・テキストの古典的著作である。事実、直接的にカトリック特有の聖体拝領を扱う第四巻を除き、聖書が縦横に引用されつつ進められている信仰的勧告はすべからく、時代や教会的伝統を超えて私自身の魂にも突き刺さってきた。中世カトリックはスコラ神学などでプロテスタントにはあまり評判が良くないが、このトマス・ア・ケンピスのような優れた霊性の人も輩出していることを忘れてはならないであろう。過度な神学的思索を次のように戒めているが、これは神学を学ぶものが常に立ち返るべき精神であろう。  「もしあなたが謙遜を欠き、従って三位一体(の意)に適わないなら、三位一体について高遠な論議をしたところで、何の益があろうか。まことに高邁なことばが、聖徒や義人を作るものではなくて、徳のある生活が人を神に愛されるものとするのである。私は悔恨の定義を知るよりも、悔恨の情を感ずることの方を選ぶ。たとえ聖書のすべてを外面的に知り、あらゆる哲学者のいったことを知るとしても、神の愛と恵みとがなければ、その全てに何の益があろう。神を愛し、それだけに仕えること、それ以外は、『空の空、すべてが空である』(伝道者の書1:2)。この世を軽んずることによって天国に向かうこと、これが最高の知恵である。・・・ 人間はみな生まれながら知を望みもとめる。けれども神を畏れることのない知識が何の役に立とうか。まことに、神に仕える卑しい田舎の男は、自身をゆるがせにして天体の動きを測る傲慢な哲学者に優るのである。・・・たとえ私がこの世界に在るすべてのものを知っていようと、愛に身を置いてなければ、所行によって私を審こうとする神の前で、それが何の助けになろうか。あまり多くを知ろうとする望みは抑えるがいい。なぜかというとそこにはいたく心を散らし、欺く力が見出されるから。人は好んで知識のある者と見られたがり、また賢者といわれるのを欲する。(だが)それを知ることが魂にとってはわずかしか、または全く、役に立たない事がたくさんにある。そうして彼の救いに役立つこと以外の雑事に心を用いるものは、非常に愚かな人である。」 (15〜17頁)  このとおり非常に深い霊性を示す文章ではある。当時のスコラ神学の一部に見受けられた、「天使は針の上に何人乗れるか」、「神はきゅうりに受肉することができたか」、「神は遊女を処女に変えることができるか」などの、一見瑣末な議論にうつつを抜かすことに対する痛切な批判といえる。しかしながら、十分な吟味に値する問題が存することを指摘しなければならない。それは、「神を愛し、それだけに仕えること、それ以外は、『空の空、すべてが空である』(伝道者の書1:2)。この世を軽んずることによって天国に向かうこと、これが最高の知恵である。」(15頁)との言明に見出される、神の創造に対する評価の問題である。  神の創造に対する積極的評価は、キリスト教の異端論駁の歴史においてほとんど常に主張されてきたことである。キリスト教がその歴史の最初期において直面した強敵は、新プラトン主義やグノーシス主義に代表されるような、来世・霊的世界の高い評価に対するこの世・肉体の軽視の思想であった。このような考えは神による「良き創造」に真っ向から反対するものであり、それは明らかに聖書の思想に反する。  キリスト者は確かにこの世においては寄留者である。しかしそれは一時滞在の地(この世)に対する責任の放棄が認められているということではない。むしろ、永遠の世界(来世)に思いを馳せつつ、いつ死や再臨によって主なる神にお会いしても良いように、任せられた責任を果たし続けなければならない。その意味では、神から任されている責任(文化命令)を果たす原動力として、トマス・ア・ケンピスの示す霊性は根本であることは確かである。神の前に静まり、神の御言葉に沈潜してはじめて、わたしたちはこの世に遣わされていくことができるのであろう。

Posted by ブクログ

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