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実践カルチュラル・スタディーズ ちくま新書
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商品詳細
内容紹介 | |
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販売会社/発売会社 | 筑摩書房/ |
発売年月日 | 2002/05/20 |
JAN | 9784480059451 |
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実践カルチュラル・スタディーズ
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実践カルチュラル・スタディーズ
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商品レビュー
3.6
9件のお客様レビュー
2002年に書かれた内容がそれなりに古く「おお懐かしい」と感じた一冊。 「古い」というだけでは切り捨てられない、2002年当時のカルチュラルスタディーズの振り返りとして読めた。 90年代の末から2000年代の初頭にかけて、本書で書かれているような「実践」というのは、それなりに...
2002年に書かれた内容がそれなりに古く「おお懐かしい」と感じた一冊。 「古い」というだけでは切り捨てられない、2002年当時のカルチュラルスタディーズの振り返りとして読めた。 90年代の末から2000年代の初頭にかけて、本書で書かれているような「実践」というのは、それなりに普及しつつあったインターネットと絡めて文字通り「実践」されていたのを思い出す。 ただそこではわざわざ「カルチュラルスタディーズ」という言葉を使っていたケースはそれほど多くなかった気もする。 本書は90年代末の深夜番組のノリとでもいうか、サブカルの全盛期のノリとでもいうか、ドラムンベースのノリとでもいうのか、とにかく文字にしずらいあの雰囲気、いわゆる「ノリ」という言葉で表すのが適当に思えるようなものがあったのを久々に思い出した。 当時の「カルチュラルスタディーズ」は、正しさとは何か、自由とは何か、という今振り返るとそれなりにコアな話をサブカルや新しいアート、(インターネットなどの)最新のテクノロジーを通して傍観せずに参加して各自が答えを見出していく過程を提供するような「ノリ」があったと記憶しているのだけど、最近はどうなのだろうか。 刊行当時に蔓延していた「ミレニアムを迎えることで人類に大きな変化が訪れる」という根拠のない期待への同調。また同じような同調による「多様性への賛美」といった「ノリ」は今考えると気味が悪いな。
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『カルチュラル・スタディーズ入門』(ちくま新書)の続編です。 カルチュラル・スタディーズは、今ではすっかり大学制度の中に一定の場所を占めるようになっていますが、そこで学ばれた、「ディアスポラ」「他者性」「ヘゲモニー」などの用語を用いた論文が量産されることに、違和感を覚えている人...
『カルチュラル・スタディーズ入門』(ちくま新書)の続編です。 カルチュラル・スタディーズは、今ではすっかり大学制度の中に一定の場所を占めるようになっていますが、そこで学ばれた、「ディアスポラ」「他者性」「ヘゲモニー」などの用語を用いた論文が量産されることに、違和感を覚えている人も少なくありません。タイトルに「実践」という言葉を冠する本書がめざしているのは、大学の中で流通している概念を振り回すのではなく、実践のただ中から既存の社会学的言説に回収されないような「批評」の可能性を探ることだと言えるように思います。そうした著者たちの態度は、すでに前著『カルチュラル・スタディーズ入門』でも明瞭にうかがえましたが、本書では「RE/MAP」という小倉の町を歩くプロジェクトやラジオ放送の試みなど、著者たちが実際におこなってきた活動を取り上げながら、さまざまな人びとが新しい形の「連帯」を生み出しつつある様子が活写しています。 また著者たちは、レイヴ文化の中で「引用」されるさまざまな宗教や民族の意匠がきっかけとなって、それを生み出した文化や歴史への「連帯」がレイヴァーたちの間で育まれつつあるという事例を報告しています。ここには、ポスト・コロニアル以降の文化理論の中であってさえ、文化の「雑種性」を、それに先行する「純粋性」を前提とし、そこから構成されたものとして記述する傾向を免れていないことへの批判が含まれています。なぜなら、レイヴ文化の「引用」に見られる「混淆主義」(syncretism)は、単なる「雑種性」「折衷主義」とは異なり、現実にさまざまな地域や文化が出会う場から主体的にアクティヴな「連帯」へ踏み出そうとする動きとして理解されるからです。著者たちはこうした新たな「連帯」の発生を希望を込めつつ見守っていこうと語ります。
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「実践的」という割には抽象性が強いような気もするが、前著「カルチュラル・スタディーズ」よりも理解しやすい。政治に対してどうアプローチしていけばいいのか、いまいち分からない人には「カルチュラル・スタディーズ」という概念を少し突っ込んでみるのは有効ではないかと思う。すぐに結論が出る...
「実践的」という割には抽象性が強いような気もするが、前著「カルチュラル・スタディーズ」よりも理解しやすい。政治に対してどうアプローチしていけばいいのか、いまいち分からない人には「カルチュラル・スタディーズ」という概念を少し突っ込んでみるのは有効ではないかと思う。すぐに結論が出るものではないが、政治は人間が生きている限り一生つきまとうものであり、無関心を理由に自らの無知をネタにして笑い飛ばすよりもよっぽど有益ではないか。 政治が絡むとどうして美術や音楽というものがクローズアップされてくるのか疑問を持ったこともある。その点については、政治がすべての人の生活に関わってくるものであることを前提とすれば、人間が生きるうえでなにかしらのカタチでの「表現手段」を持っているか否かは影響が大きい、ということを意味しているのかもしれない。 本書のように専門書というには柔らかく、新書にしては敷居が高いイメージを纏ったものを読んでいると、その分野での権威ある文献の文章を引用していることが多い。これをたどってさらなる深い内容へと向かうことが多いのだが、そうしたリンク機能とでもいうべきものは、書籍の質を大きく左右する要素のひとつであろう。引用が多いということは著者がそれだけ多くの文献に接していることを意味しており、別分野での人気に乗じて出版業界に紛れ込んだ似非論客とは一線を画するものである。 本書で紹介されている若者たちの活動を見ていて共通しているのはあらゆる活動を楽しみ、その結果政治的な影響を与えている、ということ。日々の日常の発端には政治があり、日々の日常の結果も政治に繋がるということでもある。日々勉強している学生が、日々子育てに奮闘している主婦が、日々会社へ通勤している会社員が、政治から発せられた違和感を感じた時、行動のベクトルは日常からずれた活動へと向かう。違和感を感じても無関心でいられる状態のほうが異常なのではないか。そうした「にらみ」が効いている社会には自分勝手な為政者は育ちにくい。政治や国はほんの一部の「優秀な方々」によって成り立つわでではない。
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