商品詳細
内容紹介 | |
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販売会社/発売会社 | 小学館 |
発売年月日 | 2001/12/01 |
JAN | 9784093794206 |
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逆説の日本史(9)
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逆説の日本史(9)
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商品レビュー
4.2
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沖縄の歴史から始まり、倭寇について、そして各戦国大名についてが論じられていました。 学校では習わない沖縄の歴史について 倭寇は単なる日本人の海賊ではないこと 日本人として、倭寇について認識を深め、他国に対してどのような態度を取るべきであるか。 面白かったです。 また、下剋...
沖縄の歴史から始まり、倭寇について、そして各戦国大名についてが論じられていました。 学校では習わない沖縄の歴史について 倭寇は単なる日本人の海賊ではないこと 日本人として、倭寇について認識を深め、他国に対してどのような態度を取るべきであるか。 面白かったです。 また、下剋上の戦国時代、各大名のエピソードにそれぞれ個性があり、この時代はやはり面白い。 途中、昔時点の総理大臣の施策について批評されている部分がありましたが、読み流しました。
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〇第1章 平和の国、琉球王国(1429-1879)。その平和が如何にして維持されたか。平和を維持するには、国が豊かでなければならないが、そのためには琉球は貿易に活路を見出すしかなかった。14世紀末から16世紀中ごろまでの「大交易時代」の出現である。 その背景には、大陸で建国され間もない明(1368-1644)では、モンゴル(元)の勢力を北方へ駆逐するための内戦状態が続いたことがある。琉球は明に対し、火薬の原料になる硫黄(硫黄鳥島)と戦場に軍事物資を送るための琉球馬を朝貢したのである。そして、朝貢→回賜の形で輸入した物品を近隣諸国に輸出し莫大な利益を上げていた。琉球の「平和」は、明に「武器」を輸出することにより、保たれていたのである。 〇第2章 前章のとおり、貿易で莫大な利益が得られるにもかかわらず、高麗・李氏朝鮮、あるいは明が貿易の利益を独占しようとしなかったのは、伝統的に商業に対する差別意識のため交易を認めなかったから。従って、平和的な交易も「賊」となる。そのうえ、海のうえでは防衛のため武装が必要なため、貿易行為と海賊行為は紙一重の存在であったのだ。 14世紀中ごろの倭寇は、壱岐・対馬・五島の商業行為が、高麗や李氏朝鮮との正常な交易体制が取れずに海賊行為と見做されたことに始まる。やがて、モンゴルの圧迫により高麗朝が弱体化すると、半島内の非定住民(被差別住民)が「倭寇」と名乗り、海賊行為を行った。 一方、16世紀の倭寇は、明の海禁政策が原因であった。海外貿易商人が、犯罪者と扱われたからだ。そして、官憲の追及を逃れ、日本の五島などに逃亡したのである。この頃の倭寇は8割が「明」の反乱分子であったことに要注意である。 また、1543年に日本に鉄砲を伝えたのは、倭寇の頭領「王直」の船(明船)に便乗していたポルトガル人であるということも興味深い。前年には台風で漂着したものの、今回は倭寇とポルトガルが貿易目的で、鉄砲を「売り込み」に来たのだ。当時日本は硝石が産出できず、輸入せざるを得ないことも「売り込み」には最適であった。そしてその種子島や大阪の堺に多くの信者を抱えていたのは法華宗(日蓮宗)であり大本山が京都の本能寺なのである。 〇第3~5章 「和」を重んじる日本。しかし「和の原理」では戦国時代のような厳しい競争社会には勝てない。この意味で、戦国時代は「実力主義」を宣言した朝倉隆景(十七箇条)に始まり、実力主義を徹底した結果、忠誠心なき実力者に滅ぼされた織田信長に終わるといえる。そして次の家康は、「不器用でも忠誠心」ある社会を目指した、つまり「和」の社会に回帰したのである。 しかし、非日本的な戦国時代の実力においても、戦国大名にとって大切なことは「民を引き付ける魅力」であった。併せて、名将と呼ばれる戦国武将は、経済力を持っている。武田信玄(甲州金)、上杉謙信(越後黄金山金山、青そ(麻織物の原料)や港湾の関銭)、毛利元就(石見銀山)、北条氏康(伊豆の港や金山、相模の港などの収入)、今川義元(梅が島金山、土肥金山)といった、金・銀山の存在も大きい。善政あっての和である。 ところで、「(武田信玄が)あと10年長生きしていれば、信長に代わって天下を取った」という言説がある。単に兵力だけをいうと、信玄軍は最強である。しかし、兵力だけでは天下は取れないのだ。その理由は次のとおり。 ・「兵農分離」をしなかった。従って農閑期にしか戦ができない。 ・実力主義ではなかった(実力で幹部に抜擢したのは山本勘助だけ) ・鉄砲の生産力においても、硝石の輸入ルートにおいても、信長や西日本の大名にかなり劣る存在であった(宣教師との繋がりがなかった)。 ・寺社勢力と繋がっていたこと。 最後の点を補足する。戦国時代は、荘園や関所や座や市といった様々な経済利権を寺社勢力が握っていた。だから信長は、楽市楽座政策で、彼らの統制経済にメスを入れ、関所の廃止によって彼らの保持していた最大の利権も奪い、庶民に返したのである。 しかし、出家して寺社勢力の一員となった信玄の視野には、こうした方向性はあり得ない。既存の最大勢力は、必ず既存の利権あるいは古い思想に立脚する。だから、信玄には国民世論を味方につけた暮らしやすい社会を目指した日本改造は不可能であったと見るのが自然なのである。
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織田信長は何故改革に成功したのか?がよく分析されている。今の日本は平安時代末期か室町時代末期のような閉塞した時代と類似している。自民、民主どちらの二大政党にも功罪あり。世論を支える大衆派の無所属がいつかは多数派を構成し、この衰退する国を改革してほしい。それには、信長のような理念が...
織田信長は何故改革に成功したのか?がよく分析されている。今の日本は平安時代末期か室町時代末期のような閉塞した時代と類似している。自民、民主どちらの二大政党にも功罪あり。世論を支える大衆派の無所属がいつかは多数派を構成し、この衰退する国を改革してほしい。それには、信長のような理念が重要だ。
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