商品詳細
内容紹介 | |
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販売会社/発売会社 | 思文閣出版/ |
発売年月日 | 2000/12/20 |
JAN | 9784784210671 |
- 書籍
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関ケ原合戦と近世の国制
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関ケ原合戦と近世の国制
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徳川時代270年のまさに端緒となった関ケ原合戦が内包していた諸問題の再検証と、 合戦後の領地配分(地政学的状況)にみられる支配の実態、将軍制をめぐる思惑と 確執、家康と秀頼の関係などを通して豊臣と徳川の「二重公儀体制」の実態を明か し、徳川家康の政権構想と近世天皇制との関係を論じ...
徳川時代270年のまさに端緒となった関ケ原合戦が内包していた諸問題の再検証と、 合戦後の領地配分(地政学的状況)にみられる支配の実態、将軍制をめぐる思惑と 確執、家康と秀頼の関係などを通して豊臣と徳川の「二重公儀体制」の実態を明か し、徳川家康の政権構想と近世天皇制との関係を論じる著者最新の論集。 (思文閣出版HPより) Ⅰ 関ヶ原合戦の展開 第一章 蔚山籠城戦と関ヶ原の展開 第二章 豊臣七将の石田三成襲撃事件 第三章 関ヶ原合戦の推移とその諸論点 第四章 真田一族と関ヶ原合戦 第五章 関ヶ原合戦後の地政学的状況 Ⅱ 徳川家康の政権構想と近世の国制 第六章 徳川家康の源氏改姓問題 第七章 徳川幕府の成立と慶長年間の二重公儀体制 第八章 禁裏と二条城 第九章 高仁親王即位問題と紫衣事件 終 章 関ヶ原合戦と近世の国制 2000年の刊ということで、いささか古いが内容は抜群に面白い。 すべての考えに賛成という訳ではないが、読んでいて触発された。 以下、備忘的に 朝鮮出兵が豊臣政権に及ぼした歪みは、思っている以上に大きい。 三成が伏見の家康邸に逃げ込んだという誤説がどの様に広がったのか がわかり面白い。通説も疑ってかかる必要を感じた。 豊臣奉行衆は、当初、三成に加担していなかった。家康は増田長盛と 淀殿の書状を自らの正当性のよりどころとしていたが、奉行衆が西軍に ついたので豊臣恩顧の諸将の心底を見極める必要が生じ江戸滞留となっ たが、岐阜城攻略を受けて急きょ出陣することとなった。秀忠遅参は戦略の見直しによるもの。 真田一族の動向は婚姻関係による影響が大きい。 (昌幸は石田と、幸村は大谷、信之は徳川と縁戚関係にあった) 関ヶ原直後の領地宛行は、判物や朱印状が見当たらず、使者による口頭伝達という手段がとられている。 外様大名を僻遠の地に追いやったという見方は、当時の政治地理的な感覚を基準としたときに疑問。 日本列島の政治支配は東国と西国の二元体制をとる方が一般的であり 家康は、豊臣家に西国方面の管理責任を委ねた。(鎌倉、室町幕府の例から二元体制の説明は、目からウロコであるが、豊臣家に管理責任を委ねたという見方は疑問な気もする) 豊臣関白公儀体制がまさに完成をみようとしている時期に、家康の源氏改姓と征夷大将軍の志向が同時に進行していた。 徳川和子の入内、高仁親王の誕生時点では、朝廷と幕府の関係は良好だった。 紫衣事件、幕府は穏便に済ませるつもりであった。 本書は、「関ヶ原合戦(講談社メチエ1994年刊)」以降の六年間に得られた知見をまとめたアカデミックヴァージョンという性格を持っているというが、関ヶ原から徳川幕府成立までの間を論じるうえで不可欠 な一冊であると思う。
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