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声の回帰 映画『ショアー』と「証言」の時代 批評空間叢書8
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商品詳細
内容紹介 | |
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販売会社/発売会社 | 太田出版 |
発売年月日 | 1995/09/28 |
JAN | 9784872332391 |
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声の回帰
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声の回帰
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ガス・トラックの作業に関してナチ自身気づいているように、ナチのプロジェクトは、本質的に封じ込めのプロジェクトだった。つまりガス・トラックははじめから死のコンテナとして、一種の動く墓、生ける墓所への強制的な監禁として、計画sあれたのだった。死の収容所、ガス室、ゲットーの壁の中への囲...
ガス・トラックの作業に関してナチ自身気づいているように、ナチのプロジェクトは、本質的に封じ込めのプロジェクトだった。つまりガス・トラックははじめから死のコンテナとして、一種の動く墓、生ける墓所への強制的な監禁として、計画sあれたのだった。死の収容所、ガス室、ゲットーの壁の中への囲い込みなどとまさに同じ仕方で、ガス・トラックもまたいま一度、ナチの計画の中で他者がどのように囲い込まれ、文字通りに枠づけされるかを具体的に示している。ここで謀られた封じ込め、物質的でもあれば形而上的でもある封じ込め、の本質は、物の容れものというコンテナ本来の姿を、他者を文字通り抹消するための手段、殺人を合理化するための媒体へと変換することにある。こうしてゲットーはガス室に通じる前段階の控室へと作り変えられ、移動トラックは、運送のための実用的な乗り物から、どこへも行かない乗り物、まさにガス札を行う乗り物、へと姿を変えられる。
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『ショアー』がわれわれに見せてくれる―われわれに洞察させる―のは、ホロコーストがその文字どおりに圧倒的な明証性によって逆説的にも完全に証明不能の出来事へと転じてしまう、絶対的な歴史的事件の出現である。(p.23) ユダヤ人大虐殺を扱った証言映画『ショアー』を読むショシャナ・フェ...
『ショアー』がわれわれに見せてくれる―われわれに洞察させる―のは、ホロコーストがその文字どおりに圧倒的な明証性によって逆説的にも完全に証明不能の出来事へと転じてしまう、絶対的な歴史的事件の出現である。(p.23) ユダヤ人大虐殺を扱った証言映画『ショアー』を読むショシャナ・フェルマン。フェルマンによれば『ショアー』には3つの証言者が存在する。 1.虐殺を生き延びたユダヤ人(犠牲者) 2.虐殺の事実を知っていたが、それを見ていたポーランド人(傍観者) 3.虐殺を実行したナチ(加害者) もし第2次世界大戦におけるヘルムノ、トレブリンカ、アウシュビィッツなどで起きた<出来事>を生き証言によって、再構成させるならば、「犠牲者」達からその「声」を聞き出すことが確実なはずだ。『ショアー』においては、誰もが考えるようにそれを実行する。しかし、映画の冒頭において、その企ては全く不可能なことが証人達によって宣言されてしまう。そのあまりの強烈な<出来事>ゆえに、犠牲者たちはそれを語るための「声」を失ってしまい、表象することができないからだ。「内部(=犠牲者)から証言することが不可能なのは、内部には声がないからであり、これこそがこの映画がわれわれに伝達し理解させようとしていることである。(p.61)」 当然のことながら、傍観者、加害者であった人々は、その<出来事>が自分達にとって他者性的な問題であったがゆえに、その「声」はどこかあやふやであり自己防衛に走り、決定的な「証言」とならない。このようにユダヤ人大虐殺の際に起きた<出来事>の証言=表象の不可能性を露呈させてしまうのが証言映画『ショア』における最も重要な論点の一つであることをフェルマンは指摘する。 それでは、誰がその<出来事>を表象させることが可能だというのか?そもそもその<出来事>を表象することはもはや不可能なのではないだろうか?私たちはこのような問いを『ショアー』という映画によって突きつけられる。 フェルマンによれば、先の問いに対する答えは「イエス」でもあり「ノー」である、ということが約10時間にも及ぶ映画の中で提示されていると指摘する。果たして、私たちはこの20世紀における最大の問題の一つでもある、「ショア」(大虐殺)にどのように向き合うことが可能なのか?語る言葉を失った人々はいかにして「声の回帰」が可能なのだろうか? 「この映画があつかっているのは、真実と敷居のあいだの関係についてである。すなわちこれは、真実を語ることの不可能性についての映画であるとともに、ある敷居を踏み越えて、のちに真実を回復をしなければならない歴史的な必須性についての映画なのだ。」(p.62)
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