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先祖供養と墓 新しい視座で説く、先祖の祭りと来歴 角川選書228
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商品詳細
内容紹介 | |
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販売会社/発売会社 | 角川書店 |
発売年月日 | 1992/07/30 |
JAN | 9784047032286 |
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先祖供養と墓
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商品レビュー
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書いていた小説の資料として読んでみた。名前だけ知っていた「殯」について比較的細かく知ることができたのが良かった。また、日本の伝統的な葬式が如何にして仏教を組み込んでいったのかなども分かりやすく書かれている。 葬式に於いては、なぜこのような行為をするのかということに意味を持たせ...
書いていた小説の資料として読んでみた。名前だけ知っていた「殯」について比較的細かく知ることができたのが良かった。また、日本の伝統的な葬式が如何にして仏教を組み込んでいったのかなども分かりやすく書かれている。 葬式に於いては、なぜこのような行為をするのかということに意味を持たせられることが多い(仮に現代では意味を失われた行為でも、昔は何かしらの意味があったことがある)。また、その土地や宗教によっても大きく異なる。 この本が葬祭や墓についての全てを網羅しているわけではないと思うが、入門書として読むには良いのかも思う。ただ、この本に書いてあることが正しいかどうかの判断はできない。
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備忘録です。 葬式仏教を恥ずかしがるのは、葬式の儀礼を執行する僧侶なり宗教者なりが霊の実在を信じていないからです。(中略)霊の力を信じない場合はインチキ祈祷になってしまいます、目に見えない霊の実在、目に見えない霊の力を確信するしかないという問題が、葬式仏教が立派な宗教活動になる...
備忘録です。 葬式仏教を恥ずかしがるのは、葬式の儀礼を執行する僧侶なり宗教者なりが霊の実在を信じていないからです。(中略)霊の力を信じない場合はインチキ祈祷になってしまいます、目に見えない霊の実在、目に見えない霊の力を確信するしかないという問題が、葬式仏教が立派な宗教活動になるか卑しい活動になるか、祈祷が本当の紙の恵み、霊の恵みを人に得させようとするのか、あるいはインチキになるという分かれ目です。 宗教は奇蹟なしには成立しません。 学問や宗教には学者なり文化人のレベルの学問や宗教があり、またそうでない底辺の庶民にも学問なり宗教があります。従来は高次元のほうだけ認めて、低次元の方を嫌ったり認めなかったりします。本当の宗教であれば、底辺の人々こそ大事にしなければいけません。ですから葬式は非常に大事な仏教の宗教活動の中心になります。だからこそ寺も葬式でもっています。葬式をするからこそ檀家は寺を大事にし、寺を建てたり修理をしたりするわけです。 (P102−103) 死者の供養・菩提のためには法華三昧が非常に重んじられました。それはどうしてかというと、まず亡くなった人を滅罪しなければなりません。滅罪しないと往生できません。専修念仏という浄土宗や浄土真宗になってくると、これは必要としない風になってきますが、一般的な意識ではそうではない。滅罪してはじめて往生ができるので、常行三昧、念仏三昧が行われるようになりました。これなしに往生しないと考えるのが庶民信仰の1つの姿です。 (P127ー128) もとは念仏講が葬式をして、僧侶はあまり関与しませんでした。 もとは共同体に氏というものがありました。いわば血縁につながる者です。あるいは擬制血縁といって、実際には血縁はつながってはいないけれど、氏上なら氏上の支配を受けるような位置にあるものを古代社会では部民(かきのたみ)や部曲(かきべ)といいました。そういったものも1つの擬制血縁で、それ全体で葬式を行ったのです。 (P137ー138) この毛坊主たちは雑信仰もしますし神様も拝みます。蓮如上人自身が八幡大菩薩の幡をを書いたりしたのが残っていますから、本音と建前が違います。建前は専修念仏ですが、本音の方はいろいろな仏を拝んでもいろいろな神を拝んでもいいわけです。(中略) この毛坊主たちがいちばんの下部構造で、死者を清めることまでしたと考えられますが、死者を清めてやらなければ浄土に行けません。(中略) 念仏一辺倒だと思われている恵心僧都が真言加持のことをいってますが、光明真言は死者の罪を滅ぼす一番大きな効能があるものだといわれていました。 (P141ー142) 民間寺院は布教をしたり、幼稚園をやったりいろいろな多角的な活動をしていますが、もともとは墓寺あるいは檀徒墓、位牌堂というものとして出発しています。(中略)寺も単なる墓の寮や庵から寺院になるという発展形態をとっていますから、職能はなんといっても墓を守ることと葬式をすることです。 (p196-197) 半僧半俗の毛坊主が僧侶になり、道場が寺院になるというのが民間寺院の成立です。そういうところでは毛坊主の自葬ということが行われます。正式の僧を頼まない葬式が自葬です。 (p198) 亡くなった人がありますと寺にかなりのものを寄付するわけです。のちになると着物を納めるだけになりますが、本来は祠堂銭を納めたのです。かつてはかなりのものを納めたり田畑を死者のために寄進したりしました。比叡山が非常に墜落したのは祠堂銭とのためであるといわれています。(中略)金貸しのパトロンは実は寺で、しかもそれは人が死んだ時に納める祠堂銭でした。 (p202-203) 真言宗以外では墓上に杖を立てます。(中略)これもモガリにおける花蔓です。同時に杖は依代でここに死者の霊がとどまるようにということで、斉き竹といったものを想定します。斉くというのは、ここに霊を斎きまつることです。 ところがいつの間にか息つく竹と呼ぶようになりました。(中略)「斉い木」と言われたものだと推定します。 位牌の成立として考えられるものに中国の儒教の神位というものがあります。私は位牌と言うのは斉い木が一つの起源であろう考えます。 (p228-229)
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