商品詳細
内容紹介 | |
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販売会社/発売会社 | 河出書房新社/ |
発売年月日 | 1991/08/02 |
JAN | 9784309472072 |
- 書籍
- 文庫
南方熊楠コレクション(第2巻)
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南方熊楠コレクション(第2巻)
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(01) 南方は話題をどこまででも転がしていく。連想もあるが、気分もある、怒りもあるが、笑いもある、そんなときどきに、ところどころに湧き上がってくる熱をもって、話題をどこかに、いまどきの言葉でいえば、読者の斜め上にも、転がしていく。 さしあたって、読者はそれを楽しめばよいわけであ...
(01) 南方は話題をどこまででも転がしていく。連想もあるが、気分もある、怒りもあるが、笑いもある、そんなときどきに、ところどころに湧き上がってくる熱をもって、話題をどこかに、いまどきの言葉でいえば、読者の斜め上にも、転がしていく。 さしあたって、読者はそれを楽しめばよいわけであるが、下世話な話題(*02)、どうでもいい話題、知らなくても特に困らない雑な話題、分類学や言語学の専門家でも専門によっては立ち入る必要もない話題、こうした話題を現代の読者は果たして楽しむことができるだろうか。 中沢氏の解題は、必ずしも楽しみ方を教えてくれてはいないが、古代から言葉や文字をもった人間が、このような話題をどのように楽しんみ、伝えてくれたのかの一端を教えてくれる。すなわち神話的で誌的な思考、それはレヴィ=ストロースの構造人類学に従えば、野生の思考と呼ばれる楽しみ方である。近代の大陸派が描いたロマンチックな物語という型からは度外れした、具体物の対象が流転するのに賭け、対象に耽る愉悦を読者は共有できるだろうか。 (02) 中沢氏が指摘するように、本書に収められた「燕石考」は南方の雑多なテキストや話題の中でも比較的整った体裁をもっている。後半の柳田宛書簡では、南方自身も記しているようにそれが公表を前提としていないため、政治や文学、高遠な思念から卑近な身辺まで、思いつくままに開陳されている。 これらの書簡を書き始めた時間や書き終わった時間のメモからもわかるように、このお手紙たちはつまるところ、わたしたちも共有しているような、夜中に書いてしまってそのまま寝てしまい、朝起きて読み返すと恥ずかしい想いをする、あのラブレターのようなものであることがわかる。 南方は書簡中にも記しているが、定職もないのに多忙であり、おそらくこれらの手紙は読み返され、清書されることもなく封をされ、投函されたに違いない。南方が面白いのは、そのような書簡スタイルに、論文スタイルと違ったテクストの社会的な価値を見出し、意識しつつ、その先を、この場合の柳田に託したことにある。 南方自身、そして彼が提出する話題も、常に転がるようなエネルギーをもっていたが、受け手もその転がりをとどめるようなことができずに、その先へその先へと転がしてしまうような熱が込もり、込められているのが魅力である。 鷲石や燕石といった見るからに転がりやすい話題だけではなく、人が手もとにおくのを憚るような、厠、人柱、鼻塚、性交の体位や性教育、オカルト、長者の経済などなどを原稿として投げつけ、社会を当惑させた/させているであろう様は痛快である。
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南方熊楠は柳田国男や宮本常一のように、各地を丹念にフィールドワークして歩いた訳ではない。フレイザーのようにブッキッシュで、ヨーロッパに渡ったときなども、世界各国の膨大な文献を読みあさったようだ。熊楠の「フィールドワーク」はむしろ、菌類の採集のための山奥歩きに取っておかれた。 した...
南方熊楠は柳田国男や宮本常一のように、各地を丹念にフィールドワークして歩いた訳ではない。フレイザーのようにブッキッシュで、ヨーロッパに渡ったときなども、世界各国の膨大な文献を読みあさったようだ。熊楠の「フィールドワーク」はむしろ、菌類の採集のための山奥歩きに取っておかれた。 したがって南方熊楠のは「民俗学」というより、フレイザー的な「人類学」と呼ぶにふさわしい。巻中白眉というべき「燕石考」も、文献の渉猟から成った論文で、東洋世界と西洋世界での伝承の差異もきわだたせており、面白い。 「伝説はその原因があまりにも多様で複雑な点で、またそのために、先行するものを後になって追加されたものから解きほぐしにくいという点で、まさに夢に匹敵するものである。ところで原因のあるものは、くりかえし果となり因となって、相互に作用しあう。そして原因の他のものは、組み合わされた結果のなかにとけこんで、目に見えるような痕跡を全く遺さないのである。」(P389) このような視点は人類学的で、レヴィ=ストロースにも近いと言えるだろう。 ただし、中沢新一氏が長大な「解題」で述べているような熊楠解釈は、相当の拡大解釈が見られ、熊楠が全然言ってないことを恣意的に補充した我田引水というべきものである。これでは「解説」にはなっていない。完全に中沢氏自身の主張を展開しているだけだ。実際に「燕石考」を読んでみて、改めてそう思った。 本書後半には柳田国男に宛てた書簡が収められている。8歳年下の柳田は、熊楠の考え方にかなり違和をおぼえたらしく、なにかしゃくに障ったのか、痛烈に熊楠批判を書き送ったらしい。それに対して熊楠も柳田批判を書いている。それでも書物を送って貰ったりが続いているのは、やはり「大人の関係」と言うべきか。 本書には柳田の方の書簡は収められていない。どうせなら、両者の往復書簡の形で読みたかった。
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雑誌に発表されたものから柳田との書簡まで、民俗学に関する南方熊楠の文章を集めている。とにかく様々な事例が列挙され、南方熊楠の博識ぶりがよく分かる。
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