天文法華の乱 改訂新版 の商品レビュー
〝天文法華の乱”、名前は聞いたことはあるものの、どういう争いであったのか、あまりその中身を知らなかった。最近室町幕府後期の時代に関心を持ち始めたこともあり、再刊されたこの機会に読んでみた。 直接には、天文5年(1536)7月に京都を舞台に勃発した日蓮宗と天台宗(延暦寺)との戦...
〝天文法華の乱”、名前は聞いたことはあるものの、どういう争いであったのか、あまりその中身を知らなかった。最近室町幕府後期の時代に関心を持ち始めたこともあり、再刊されたこの機会に読んでみた。 直接には、天文5年(1536)7月に京都を舞台に勃発した日蓮宗と天台宗(延暦寺)との戦争、その前史まで含めれば、「天文元年(1532)7月以来同5年7月までの丸四年間、京都の町を宗教的興奮と熱狂のるつぼと化し、市政をほぼ掌握した法華一揆の洛中支配とその終焉」を指すとのこと。 細川晴元の家臣間のいざこざに起因する三好元長排除に本願寺の支援を求めたこと、その後、末端門徒による一向一揆の蜂起が大和や堺で起き、それを抑え京都を守るために法華一揆が使われることとなった。そして山科本願寺の焼き討ち、石山本願寺攻撃から戦線膠着を経て休戦へ、という一連の経過があったが、この間、実質的に京都の防衛、治安維持に当たった日蓮宗の地位は非常に上昇していた。 しかし出る杭は打たれる、きっかけとなったのは天文5年2月に行われた宗教問答で、叡山の華王房が東国上総の俗人に言い負かされた事件。これに憤激した山門がこの機会に法華一揆をつぶそうとして、山門+六角氏が京都に攻め入り、結果日蓮宗寺院は焼亡し、多くの僧侶は和泉堺に逃れた。ようやく京都帰還が認められたのが天文11年(1542)。 現象としては上記のようなところだが、本書第五章で取り上げられている法華一揆の洛中支配の期間に行われた地子銭不払・新関反対という対応の意義について学ぶことができたのは収穫だった。 本書を読んで、武家権力の一時不在の状況が背景にあることや各アクターの動きなど一連の流れを詳しく知ることができた。ただ、法華一揆側は自らが戦いを起こしたのではないのに、どうして「法華の乱」との呼称なのだろう、ちょっと不思議。
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