ソーシャルワーカーのミライ の商品レビュー
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※このレビューにはネタバレを含みます
おもしろくて一気に読了。 一番読みたかったのが、荒井浩道先生のCHAPTER2 「“専門性“以前の“支援“ “個“としての支援者」。荒井先生のことはは前から好き(『ナラティヴ・ソーシャルワーク―“〈支援〉しない支援"の方法』“すごく影響を受けた)なのですが、この書籍もすごく腑に落ちるところがありました。 ・ 専門性は質の担保のためには必要 ・ 支援者にも個別性はあるが、ないかのように扱われていた 均質であることが求められる面もあった ・ 個としての支援者には得手不得手もあるし、支援者の属性や経験が支援に影響する。支援者の当事者性は支援のリソースとして機能する可能性がある 所属組織によって多少は違いがあるけれど、「支援者は自分のプライベートについて明かしてはならない」って言う文化が強いところでは、私は違和感を感じることもあり、ケースによって、自分の当事者性を少し開示した方が、クライエントとうまくつながれた経験はあった。私自身を振り返っても、支援者仲間を見ていても、その支援者だからこそできる支援、はやっぱり存在する。 当事者性があることは、弱さでもあり、支援現場で気持ちが揺さぶられてしまうこともあるので、支援者として欠陥があるかのように見られてしまうこともあるけれど、当事者性があるからこそ相手に届く言葉が紡げて、できる支援ってある。 荒井先生の 支援者の弱さは支援する上でのリソースになる って言葉にはすごく励まされる。 荒井先生が使われる「専門性の鎧を脱ぐ」と言う言葉も好き。支援者が生身の人間として向き合うからこそできる支援もある。 上下関係や支配されることにとても敏感なクライエントと関係を作る上で、専門家らしさって邪魔になることもあるので、鎧を脱ぐことは意識しておきたい。 一方でこの言葉が「専門性なんて要らないよ」と、変な意味に誤用されないように気をつけないといけないなと思う。国家資格や専門性は一定の質を担保するものだけれど、実際の福祉現場には、無資格の事務職の人が威圧的な指導をしている行政窓口や、利用者の尊厳が守られていない福祉ビジネス、貧困ビジネス的な現場もある。最低限の質を担保しない人たちが、けっこう「資格だけあっても意味がないよね」と専門性を平気でないがしろにしながら二次被害的な「支援」を平気でしていたりする。 「専門性の鎧を脱ぐ」のは、あくまで専門性を身につけた上でのことなんだよ、って強調したい。 ほかのCHAPTERについてもそれぞれの著者が悩みながらソーシャルワークをしてこられてきたからこそ出てくる言葉があり、著者の顔が見えるような気持ちになった。 現場の在り方と資格の在り方にはギャップがあると思うし、日本のソーシャルワークはソーシャルアクションが弱いというのも耳が痛い。NPO等でいろんなソーシャルアクションを起こしている方はたくさんいらっしゃるけど、私個人が現場で感じた制度の狭間について、何かアクションにつなげられているかというと、あまりないし、職能団体の活動でもソーシャルアクションってできていないと思う。 正解のない仕事なので、いつまでたっても悩むし難しいけれど、でもやっぱりソーシャルワークっていいな、って思わせてくれる本。
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