海の城 の商品レビュー
出だしから「内地」からトラック島に向かっているはずなのに「戦艦武蔵の最期」の設定と混同したのか?「バシー海峡」が出て来たり在華米軍や国府軍が保有していない「グラマンに襲われたり」とデタラメさで帝国海軍と昭和天皇をグロテスクに書けば「評価」?されたらしい三文小説ぶりだ。そもそも終戦...
出だしから「内地」からトラック島に向かっているはずなのに「戦艦武蔵の最期」の設定と混同したのか?「バシー海峡」が出て来たり在華米軍や国府軍が保有していない「グラマンに襲われたり」とデタラメさで帝国海軍と昭和天皇をグロテスクに書けば「評価」?されたらしい三文小説ぶりだ。そもそも終戦後、昭和天皇に幻滅したんじゃなかったのか、この人?おそらく軍艦武蔵は昭和天皇の行幸を仰いだ艦なので舞台に選んだのだろう。 渡辺は昭和16年の天長節の翌日に海兵団へ入団したそうだが大正14年生まれなら、まだ海兵団に入団するには少し後でないと無理。海兵団教育を受けただけの四等水兵なのに砲術学校へ入校したという超優秀な水兵さんにしては配属されていたはずの副砲が一門ずつ照準出来るとは驚いてしまう。渡辺が武蔵に転属する前に配属されていたという駆逐艦五月雨はスラバヤ沖海戦には参戦しているが言うまでもなく連合国艦隊との砲戦だが、昭和19年に沈没したはずなのに砲塔で「砲弾の破片」が飛び込むような目に合うとか戦死者がいたとかは、どうだろう?その時点で弾薬に誘爆してしまいそうだ。ここでも「戦艦武蔵の最期」で機銃手になったという設定と混同しているのだろうか?五月雨はミッドウェーには往復しただけとかで「ソロモン」とは第二次ソロモン沖海戦らしいが陸奥を護衛して結果的に実戦には参加していないとかで戦死者がいるのかどうか。 これは「軍艦武蔵の最期」だが「海軍法規に成文化されているわけではないが、艦の沈没する時は、その原因はなんであろうと、艦長は艦と運命を共にするのが日本海軍の伝統」とあるが渡辺が配属されていたと自称する駆逐艦五月雨の最期の艦長は撃沈された時に救助されて、艦長として配属された駆逐艦初春がマニラ湾で沈められたのは武蔵に配属されていた事になっている渡辺なら知っている設定にしてもおかしくはないだろう。その上この艦長は「内地」に戻ってから駆逐艦柳の艦長となっているのは、どういう事なのか?大木毅が「第二次大戦の〔分岐点〕」などで引用している豊田穣の「これはもともと日本海軍にそのような不文律があったことにもよるが」は正しいとしても「新説」として思い込んでいるらしい「マレー沖海戦でのフィリップス提督の死が帝国海軍を呪縛した」は成り立つわけがない。第一、武蔵や初春の生き残りが配属されたマニラ海軍防備隊の司令官の岩淵三次海軍少将は霧島の最期の艦長だという事すら知らないような人が渡辺の与太本の解説を書くものだ。マニラ攻防戦で悪名を馳せた部隊ではないのか?「鉄の城」で昭和16年に「渡辺が海軍を志願し、二等水兵となった」(海兵団に入団したら「二等水兵となる」のは昭和17年になってからで、この時点では四等水兵)と書く人も含めて帝国陸海軍の「専門家」として本が書けるものだと感心してしまう。
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一応、小説の体裁。帝国海軍の戦艦に、水兵として乗るということが、いかに精神的、肉体的に辛いことであり、甚だしきは、戦闘でなく上官によって嬲り殺しになることもある、というリアリティに溢れている。 戦争の最前線に臨む兵というものは、それぐらい理不尽な鍛錬?によってスクリーニングされて...
一応、小説の体裁。帝国海軍の戦艦に、水兵として乗るということが、いかに精神的、肉体的に辛いことであり、甚だしきは、戦闘でなく上官によって嬲り殺しになることもある、というリアリティに溢れている。 戦争の最前線に臨む兵というものは、それぐらい理不尽な鍛錬?によってスクリーニングされていなければ、ここが切所というときに逃亡などをはかり、全軍にダメージを与えかねない、というのが、制裁・しごき・・が指導層によって黙過されてきた理由ではある。しかし、古年兵が初年兵に精神注入棒を見舞うときの感情は、もはや野獣めいた感覚でしかなかろう。兵隊と人権は、もともと相容れないものだということ。
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