名誉と恍惚(下) の商品レビュー
『名誉と恍惚』(上・下) 第二次上海事変の頃、警視庁から上海共同租界の工部局警察に派遣されて4年になる芹沢一郎は同僚警官にだまされ陸軍参謀が画策する陰謀工作に利用される。警察官という職務に誇りをもち殊更上昇思考があるわけでもない実直な彼の人生が根こそぎ踏み躙られ翻弄される。殺人犯...
『名誉と恍惚』(上・下) 第二次上海事変の頃、警視庁から上海共同租界の工部局警察に派遣されて4年になる芹沢一郎は同僚警官にだまされ陸軍参謀が画策する陰謀工作に利用される。警察官という職務に誇りをもち殊更上昇思考があるわけでもない実直な彼の人生が根こそぎ踏み躙られ翻弄される。殺人犯となり逃亡生活で絶望の極限状況をへて真相解明に動く。 最初、よくある戦時の大陸もので多くの作家が既に書き尽くした話と思ったが、馴染んだ時代のことであり手に取った。上・下の長編大作で「名誉と恍惚」という表題に仰々しさも感じたが、惹かれるものがあって読みはじめた。 芹沢は事故で亡くなった朝鮮人技師の父と日本人の母の間に生まれた。母とその兄を歳の離れた兄姉として、祖父母の子供として入籍され横浜で育った。 朝鮮人の血脈を隠して生きた半生であった。 上海では馮篤生という時計店を営む人形職人が彼を助ける。馮はかつて北一輝とも交流を持ち、早稲田に留学し文学を学んだ過去がある。彼の「九体の少女人形」は彼の死後バラバラになり数奇な運命を辿るが、超一流のシュールリアリズム代表作として最高の評価を受ける。前半部の人形それぞれの描写にはエロチックで怪しげなものが多く、魔都上海の底知れぬ気味悪さのメタファーとも読める。 芹沢の逃亡中暇を持て余し漢詩を読むくだりがある。漢字と仮名の話になり古代の日本民族が苦労して大陸文化を受容する歴史を遡る。作者の碩学が滲む。漢字の強靭な雄渾さと仮名の嫋々しさ、大陸と列島の民族性の違い、これを無視して一方的に力で支配しようとする軍部の愚かさを批判する。 所々で醸す作者の深い知識と教養はこの小説の重厚感と風格に磨きをかける。 当初物語に入るのに時間はかかるが、謀略参謀嘉山と青幇(ちんぱん)首領との仲介をさせられる辺りから、息もつかせぬ展開で最後の嘉山との対決まで一気に走り抜けるサスペンスアクションでもある。 最後ののビリヤード対決は唐突でこの長編のぶち壊しを懸念したが、引き込まれ勝負の決着に緊張させられる。互いの心の底を探るためのものであった。 終章で、香港脱出以来初めて現在の上海にきて、謀略に巻き込まれ苦闘した過去を回想する。 しかし、父親代わりの叔父から貰った折りたたみナイフをどうしたのか思い出せない。脱出時に芹沢の名を沈に変え、日本人であることを捨てるようにナイフも無造作に投げ捨てた、読んでいた自分にも特に印象に残った場面である。なのにこの忘却は何なのか、作者の読者への問いかけのようだ。 当時の日本軍の大陸侵略や麻薬密売に対して、また朝鮮人や中国人への民族差別について、作者の怒りに同感である。異常な環境でも民族や立場を超えて人間の在り方を求める姿勢にも共感する。 全編緻密な組み立てと丁寧な描写の読み物だ。 かつて辻邦生のビロードのような繊細で丁寧な表現に感心したことを思い出す。この作家が彼を尊敬していることを知り得心する。 読み終って緊迫の歴史空間から解放されホッとする。「名誉と恍惚」という表題の違和感も解けた。 この作家の他の作品も読んでみようと思う。
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