道徳的人間と非道徳的社会 の商品レビュー
「何よりもまず、平等は平和よりも高次の社会目標であると主張するのは、重要なことである」 (p.364 第9章 政治における道徳的価値の保存) 20世紀前半のドイツ系アメリカ人神学者、ラインホールド・ニーバー。 読みたいと思っていたタイミングに、岩波文庫の新刊として出版されたので...
「何よりもまず、平等は平和よりも高次の社会目標であると主張するのは、重要なことである」 (p.364 第9章 政治における道徳的価値の保存) 20世紀前半のドイツ系アメリカ人神学者、ラインホールド・ニーバー。 読みたいと思っていたタイミングに、岩波文庫の新刊として出版されたので、手に取った。 彼が神学者或いは牧師であることから、キリスト教精神についての話が軸になっていると思い込んで読み始めた。 タイトルからも、個人のキリスト教的道徳と集団化した社会の不条理を対比する内容だと想像された。 しかし実際の内容は、想像以上に厳しい、社会に対する洞察であった。 前半でこそ宗教的道徳について触れているが、その後は社会構造、特にロシアを含めたヨーロッパおよびアメリカの階級闘争についての歴史及び執筆当時(1932年)の情勢について書かれている。 本書における彼の態度から、この厳しく鋭い洞察こそが神学者の仕事と学んだ。 社会の中で苦しむ人に、慈悲深く寄り添うことだけが宗教ではない。 むしろ、弱者を苦しめる社会的不正義を為す権力にこそ、宗教道徳の観点が求められる、というのはもっともなことである。 (対照的に、視点の位置を変えて、権力は苦悩して個人道徳を捨てよ、というのがマキャベリズム) 冒頭の引用は、本書の主張が最も端的に表れた一節だ。 そもそもニーバーを知ったきっかけは、冷戦史を学んでいた際に目にした、ある一節であった。 そこで彼は(アメリカ人であるにもかかわらず!)、「アメリカの自由と、ソ連の平等の、どちらを民主主義と定義づけるべきか」と問いかけていた。 「平等」を掲げる彼の主張が、当時自動車工業のメッカとして急速に工業化していくデトロイトで、酷使され窮状に置かれた労働者を支援した体験に基づく、というのは頷ける。 マルクス主義とレーニンに対する評価、非暴力主義のガンジーに対する批判など、思想と社会運動についての新たな一面を知ることができた。 1932年という戦間期に執筆され、直前のロシア革命、第一次大戦、そして世界恐慌など、社会の転換点となる出来事についても、リアリティがある。 キリスト教だけでなく、思想史や歴史全般についても大いに学べる内容であった。 最後に、宗教道徳についての一節を引く。 ここでは、20世紀の思想家・バーリンの『反啓蒙主義』で主張された、「啓蒙されない自己犠牲の精神」という思想が思われた。 それを二ーバーは、「宗教道徳の愚かさ」という名で呼んでいる。 要するに、計算ずくで見返りを求めることなくひたすら善行を尽くす、という意味だ。 ロシア思想にたびたび登場するこの「自己犠牲」は、キリスト正教によるものと思っていた。 しかし二ーバーはキリスト教プロテスタントの神学者であり、正教ではない。 果たしてそれは、むしろ、「平等」とつながっているのだろうか。 「賢慮・啓蒙」ではなく、「愚かさ・反啓蒙」こそが、健全な社会へと繋がる。 これは逆説ではなく真理だろう。 キリスト教世界について、さらに学んでいきたいと思う。 「愛は、自分自身のために何ら報いを求めない場合に、最も純粋である ... このようにして、超-社会的理想を伴った宗教道徳の愚かさ(madness)が、健全な社会的帰結をもたらす知恵となるのである。同様の理由で、純粋に賢慮に基づく道徳は最善より劣ったもので満足しなければならない」 (p.408 第10章 個人道徳と社会道徳との相克)
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Moral Man and Immoral Society: A Study in Ethics and Politics(1932) https://www.iwanami.co.jp/book/b639921.html
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