他者といる技法 の商品レビュー
思いやりやかげぐち、他者による承認や否定といった日常的なコミュニケーションの背後にある力関係の構造やそれに対処する私たちの様々な「技法」について思考したり、外国人や自己啓発セミナーなどの理解が難しいものへの理解の枠組みの作られ方をメディア報道から考えたり、複数の観点から他者を理解...
思いやりやかげぐち、他者による承認や否定といった日常的なコミュニケーションの背後にある力関係の構造やそれに対処する私たちの様々な「技法」について思考したり、外国人や自己啓発セミナーなどの理解が難しいものへの理解の枠組みの作られ方をメディア報道から考えたり、複数の観点から他者を理解することや理解されることについて考察されていく。「わからないままでともにいる」ことの模索が提示されるというひとまずの結論は最近ではネガティブケイパビリティなどの概念としても重要性が認められるようになっている態度だと思うが、本書の単行本は1998年刊行ということでかなり時期が早い。今読むべきものということで2024年に文庫化してくるちくま学芸文庫、さすがに良い。 それにしても関心のあるテーマ読んでるとだいたいゴッフマンが出てくる。いい加減読んだ方がいいんだろうなぁ。
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「本当はそんな事思っていないって知っているのよ」「カワイソウな外国人就学生」「もっと他者を理解することが大事」…一見するとこれを発する人は善人に見えるけれど、理解するという事のマイナスな面が実はある…目から鱗でした。
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文章が合わず、読了にかなりの時間を要した…また、どうすれば他人と一緒いられるかを知りたくて手に取った本だが、そういったことをなにか実践的にまとめた本ではなかった。 ただ最後の章の内容は自分の思いに近く、その「わからない」ままでいられる技法を知りたいよ〜〜〜と思った。やっぱりそんな...
文章が合わず、読了にかなりの時間を要した…また、どうすれば他人と一緒いられるかを知りたくて手に取った本だが、そういったことをなにか実践的にまとめた本ではなかった。 ただ最後の章の内容は自分の思いに近く、その「わからない」ままでいられる技法を知りたいよ〜〜〜と思った。やっぱりそんな簡単なものじゃないんだよな。 どの技法も、2023年になったって成熟していないし、結局全員が心地よくいられる社会なんてあり得ないのかなという気持ちになってしまった。
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「支配階級」は、「いまある私」こそ「あるべき私」だと確言する。「庶民階級」は、「いまある私」にあったやり方を選択する。いずれも「いまの私でよい」と感じるわけだ。これに対して、「いまある」と「あるべき」がずれる「中間」にいる人々だけが「いまの私ではよくない」と感じることになる。 ...
「支配階級」は、「いまある私」こそ「あるべき私」だと確言する。「庶民階級」は、「いまある私」にあったやり方を選択する。いずれも「いまの私でよい」と感じるわけだ。これに対して、「いまある」と「あるべき」がずれる「中間」にいる人々だけが「いまの私ではよくない」と感じることになる。 他者の「リスペクタブルな他者」の1「客観化する視線」の力をいつも感じる。「ゆとり」のようにそれを「骨抜き」にして逆に他者をまなざし返すのでも、「無視」のようにその視線と関係なく自分たちの世界を作るのでもなく、他者の視線の力にさらされ、射すくめられ、釘付けにされてしまう。この他者の視線こそ、「あるべき私」がなんであるかを示すものだ。だから、さらに彼らは、その他者の目を自分のなかに移植して、自らを「他人の目で観察」し始める。私は仙者を見るよりも他者に見られる。他者が私を見ていること、見ていなくても私自身が他者の目で私を見ること、このことから彼らは抜け出すことができないのだ。 彼は意志によって「努力」してしまっているのだ。この決定的な相違を彼らはおそらくいつもどこかで気づいている(それが「気後れ」である)。その相違を必死の努力で埋めようとする。しかし「努力した」という事実に(ときに「修正の行き過ぎ」を生むほどの!)いつも裏切られてしまい、もともと「努力」なく身につけている人との違いを経験してしまう。 、救いを確証するために努力を繰り返すが、どんな成果をあげても百パーセントの救いの確証は得られず、不安のなかでさらなる努力に駆り立てられる。「中間階級」は、「いまいる私」と「あるべき私」を一致させるように努力を繰り返すが、いつもそれを一致させえず、不断に努力をつづけていく。 「リスペクタビリティ」は、こうして、「中間」にいる人々を無限の努力の循環に巻き込んでいくことになる。彼らはこの努力の過程で、当然ながら「いまいる私」を価値のあるものとみなすことはできないだろう。 「未来」の私こそ価値があるのであって、いまいる位置は「揺れ動く通過地点」にすぎない。「いまいる私」と「あるべき私」の相違。他者の視線への敏感さ。そして、努力の無限の循環。もし、これがどこまでもつづくとすれば、それは「病」と呼んでもよい出口なしのものになる。
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他者とコミュニケーションが取りたいという思いは,私の存在を他者から承認されたいという欲求からくる。また,コミュニケーションにおいて,他者に主体を取られたくない。そのため,一般にコミュニケーションとは礼節やマナーなどの交換にとどまり,それぞれの個としての理解には及ばない。 さらに...
他者とコミュニケーションが取りたいという思いは,私の存在を他者から承認されたいという欲求からくる。また,コミュニケーションにおいて,他者に主体を取られたくない。そのため,一般にコミュニケーションとは礼節やマナーなどの交換にとどまり,それぞれの個としての理解には及ばない。 さらに,他者は完全には理解できないのに,他者を完全に理解したとする自己完結や,理解できないことがわかったことによる排除・差別などが起こってしまう。 他者といる技法とは,完全には理解できない他者に対して,適切な程度でわかろうとする態度をとることで,ともにいられる状態を維持し続けることである。
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他者との関わり方を言語化してくれる。人は他者とコミュニケーションしていかないといけないからやり方なんて教えられるものではなく自然身についてしまうものだが、改めて意味を考えられた。
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小難しかった。ちらちら立ち読みして読めるかも、と思って購入したけれど、やはり文字を目で追うだけの形になってしまいました。もう少しわかりやすく読みやすいかなと思っていました。 この類の本をすらすらと読めるようになる日がくるのだろうか。
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もとの本は1998年に刊行されているとは、読んでいる間は全然気がつかなかった。そのくらい今日でも通用する、言ってみれば普遍的な問題を扱っていると言うことだろう。 他者からの承認を求めれば求めるほど孤立してしまう、きちんとしていたいと願いそう振舞えば振舞うほど、そうできていないこと...
もとの本は1998年に刊行されているとは、読んでいる間は全然気がつかなかった。そのくらい今日でも通用する、言ってみれば普遍的な問題を扱っていると言うことだろう。 他者からの承認を求めれば求めるほど孤立してしまう、きちんとしていたいと願いそう振舞えば振舞うほど、そうできていないことに自ら気づき、自らを傷つけてしまうことになる。そういうことで悩んでる人は今もたくさんいるだろう。昔からたくさんいたのだろう。 本書はそうした悩みにメタレベルの視座を与える。自分の悩みがどのような構造から生まれてくるのかを見渡すパースペクティブを与えてくれる。お前の悩みは大体こんなところなのだと見透かされてしまうような苛立ちを感じないではないが、そうした悩みの構造をメタレベルから俯瞰することによって、救われる人は多いのではないだろうか。 結論を先に言うのではなく、筆者とともに検討していくプロセスをなぞるように書かれているのも、この問題を扱うにはふさわしい手順なのではないかと思われた。 私がとりわけ面白いと思ったのは、身につまされたのは、最終章の、わかりあえない人と一緒にいる技法についてだ。 「そこには、いつも私の「理解」を超えた、予想もつかない「他者」がいる。「わかりあわない」ということは、そのような「他者」を「他者」のまま発見する回路を開いているということだ。それは居心地が悪いが、でもたくさんの発見や驚きがある。(pp.295-296)」
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正直な感想としては、あまり良い本とは思えなかった。主張に関しては「まぁそう言えばそうかもしれないけれど…」といった感じで説得力に乏しく、恣意的な論理展開がされている印象だった。 とはいえ、説得力は弱いけれど、「そういう見方もあるかもね」と面白がることはできた。
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いつもこういう類の本は最初真剣に読むけどだんだんわからなくなって字追ってるだけになるので、今回は時間をかけてゆっくり読んでみた。 結果、やっぱわからないところは多かった、、 かなり学術的な内容だった。 相手のことがわからないことは当たり前、自分のことを(ある程度)理解してもらえな...
いつもこういう類の本は最初真剣に読むけどだんだんわからなくなって字追ってるだけになるので、今回は時間をかけてゆっくり読んでみた。 結果、やっぱわからないところは多かった、、 かなり学術的な内容だった。 相手のことがわからないことは当たり前、自分のことを(ある程度)理解してもらえないのも当たり前だと思うと、気持ちはちょっと楽になる。
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