戦争と平和 の商品レビュー
この政治・哲学論集には、「サルディス陥落」(1941年)や「ソクラテスの場合」(1942年)、「公共体国家としてのポリス」(1942年)が収録されている。いずれも諸々の理由で発表中止となっている。そして終戦を挟む形で、「自由と独立」(1947年)、「理想国家について」(1946年...
この政治・哲学論集には、「サルディス陥落」(1941年)や「ソクラテスの場合」(1942年)、「公共体国家としてのポリス」(1942年)が収録されている。いずれも諸々の理由で発表中止となっている。そして終戦を挟む形で、「自由と独立」(1947年)、「理想国家について」(1946年)、「自主性の問題」(1946年)、「今日の政治的関心」(1947年)の発表へと続く。 私がある意味感動したのは、田中美知太郎の論調が、戦前と戦後とでまったく変わっていないことだ。つまり、戦後教育を受けた私たちは、戦時中の言論がいかに抑圧されていたであるとか、戦後の論壇がいかに転向者であふれ返っていたかとかについて、伝聞で知り得ている。しかし田中の論文は、発表年を隠してしまえば、それが戦前のものなのか戦後なのかが区別できない。そこまで一本の筋の通った研究者があの混乱した時代にも存在したという事実を知っただけで私の背筋は伸びる。 自称愛国者の歴史修正主義者や、自分の思想を他人に押しつけて正義を気取る“癌細胞”たちよ。次に掲げる田中の文章を精読してみるがいい。 (59ページ)本当のところ、厳密な史学の方法のみが、今日の歴史的現実が何であるかを私たちに教えてくれるのである。そしてこのいろいろな報告を批判的に取り扱う方法というのは、何よりもまず為政者に必要なのである。近代史学の教養なくしては、どんな情報を集めても、これを本当に処理することはできないであろう。その結果は状況判断を誤り、国政を危うくするようなことにもなるからである。一般にわが国の教養のうちには、いろいろな報道を吟味し、批判する教育が欠けていはしないであろうか。(「サルディス陥落」より。『倫理学』1941年12月12日、発表中止) (76ページ)『クリトン』において見られたように、ソクラテスは死の危険においても、私の利害を国家的利害のごとくに錯覚することはしなかった。私利私欲と知って、これを追求する人間はまだ救われる。それを国家のためであると信じ込む人間は、国の災であり、呪いである。このことを区別するためには、私たちはソクラテスと共に自己批判を厳にしなければならぬ。国を愛するということは、かくて容易とも見えるが、また容易ならぬことでもあると知られる。(「ソクラテスの場合-愛国心について」より。『学生叢書』1942年3月、発表中止) (78ページ)古今東西の歴史には、互いに相似したところもあり、また無論いろいろ異なるところもある。私たちの歴史的感覚は、同じと見えるものの中に異なりを発見し、異なると思われるものの間にも同一性を見出す。いわゆるわが国独特などと称する主張のうちには、東西の歴史や土俗を知らぬ無智の言論が少なくない。これと同じく、二三の類似点を捉えて、特定の国、特定の時代の歴史から、現代の歴史を類推したりするのも危険なことである。(「公共体国家としてのポリス」より。『中央公論』1942年9月23日、発表中止) (78ページ)いわゆる歴史的教訓というものは、厳正な批判によって、何よりもまず歪められない歴史的事実に立脚し、それの特殊な条件や制約を明らかにした後に、これを学ぶべきであって、我田引水、自己の主張に都合のよいような教訓のみを引き出すのでは、私たちは幾度歴史をかえりみても、本当には何も学ばないことになるであろう。(同) 私が思うに、田中の文章は例えるならばラヴェルのボレロだ。はじめのうちは日本から遠く離れた古代ギリシアの事例引用などもあって、文意を追うので精一杯。しかし田中の一貫した歴史精神や哲学への造詣が、まるで波が押し寄せるように繰り返されていく。そして私の引用でわかるとおり、ボレロのフィナーレのように、時代や世論に決して流されない確固たる田中の至言がフォルテッシモで現われるのである。 それでもこの本を冒頭から少し読んだものの難渋さを感じた人は、先に巻末の解説を読めばいい。大阪大学名誉教授の猪木武徳先生による「真理は静かに語られる」という、田中の論調をこれ以上的確に言い表せられないというくらい的を射たタイトルの解説が、理解を助けてくれる。
Posted by
戦争は悪だ。しかし、悪であって、なお正義であり得るのはなぜか。ギリシャ哲学の碩学が政治的諸問題を考察した一七篇。文庫オリジナル。〈解説〉猪木武徳
Posted by
- 1