ひろがる「日韓」のモヤモヤとわたしたち の商品レビュー
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※このレビューにはネタバレを含みます
一作目を読んでいたので、二作目となる本著も読んだ。各人のステータスが変わったこと以外は地続きであり、一作目の新鮮さは正直なかった。しかし、こうやって継続しなければ、社会を変えることはできないことを、本著は体現しており、その点で著者たちは自らの信念に忠実だといえる。 コラム、座談会を中心に構成されており、一作目同様に参加者たちが現在地を確認しながら問題点を議論している。K-popを筆頭とした韓国カルチャーの流入の勢いは止まることがなく、今なお人気を博している。加えて、韓国の若い世代の親日的なムードもあいまって、若い世代における日韓関係は良好といえるだろう。また、政治の面では本著にも記載のとおり、強制労働の賠償問題について韓国政府が肩代わりし、日韓関係の軋轢解消に向けて動いている。 このようにここ五年、十年の間で関係性は最も落ち着いている状況で読むと、何が問題なのかと思えてしまう。しかし、政治は人間の忘れやすさにつけ込んでくる。小池都知事は虐殺された朝鮮人に対する個別の追悼はいまだに控えているし、先の賠償についても、韓国側の対応で日本側は抗議後、待ちの姿勢を取っている。加害と被害の関係について誰も顧みることなく、時間が過ぎて皆が忘れることを待っているように映る。 こういったことを防ぐために歴史という形で体系的に学ぶことに意味があるのだなと改めて感じた。しかし、慰安婦の話は教科書には載っていないし、1910年の韓国併合なども深堀りして学ぶことはない。実際の学校教員の講義が載っており、教育でカバーできる限界について詳細な状況を知ることができて勉強になった。 新たな視点としては、韓国の右翼が、日本の右翼と連帯しているということ。「韓国の右翼=民族アイデンティティを大切にする=慰安婦に激怒」という構図かと勝手に思い込んでいたが、全くそうではなかった。むしろ歴史を蔑ろにする点で日韓の右翼同士が連帯しているという事実に驚かされた。 本著の最大の見どころは沖田氏の発言の数々だ。歴史を専門とする大学の先生や、志の高く時間がある学生ではなく、社会の荒波に放り出されて企業社会で生きる人間。そんな彼女と社会活動、政治の関係性が率直な言葉で語られている。理想と現実の狭間でそれでも自分でできることを模索する姿は眩しく映った。 「そんなことより」という言葉は、現在の政治と民衆の距離感をずばり表すキーワードと言えるだろう。本著内でも繰り返し登場するが、韓国では、大衆と民主主義の距離が近く、自分たちの手で国を変えることができる、という実感を伴っている。彼らにできて、我々ができない理由はないはず。ちゃちな言葉にはなるが、結局は一人一人が主体性をもって政治にコミットするしか道はない。月末選挙!裏金クソ野郎は一人残らず落としていこう!
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あらすじ(大月書店より)「モヤモヤの連鎖」とも言える読者の反響を生み出した『「日韓」のモヤモヤと大学生のわたし』から2年。大学院生と会社員になった編者が、朝鮮半島の人々との関係と社会のあり方を変えていくために、わたしたちに何ができるか真摯に語り合う。(http://www.ots...
あらすじ(大月書店より)「モヤモヤの連鎖」とも言える読者の反響を生み出した『「日韓」のモヤモヤと大学生のわたし』から2年。大学院生と会社員になった編者が、朝鮮半島の人々との関係と社会のあり方を変えていくために、わたしたちに何ができるか真摯に語り合う。(http://www.otsukishoten.co.jp/book/b633920.html) モヤモヤ本Iも素晴らしかったけど、こちらもまたよかった。 KPOP、韓国の文化が好きな人はもちろん、誰しもが読むべき本。 さらに踏み込んだトピックを扱いつつ、また、モヤモヤ本Iのリアクションを受けて考えたこと、日本で社会運動的な活動をすること、正しい情報を発信すること、歴史を学ぶことの意義まで。日韓だけでなく、不正義や差別を目にした時にどのように考え、行動すべきかの指針を示してくれるような本。 以下、印象に残った箇所引用。 日本人であるぼくには、そうした歴史を考えなくとも困らずに生きられる特権があったのです。特権的な立場から、都合のいいところだけをつまみ食いし,韓国文化をたんなる商品として享受してきたぼくは、「文化の消費者」でした。そう考えると、「歴史と文化は別だから」や「音楽に政治を持ち込むな」と発言できること自体が日本人の特権ですし、まさに「文化の消費」と言えるでしょう。これらの言葉の背景には、「政治的なことは避けたい」という気持ちがあるのかもしれませんが、歴史に目を閉ざし、文化のみを享受しようと選択することも、また,政治的な行為です。 →選べるということがすでに特権であること、意識していきたい。 「ネトウヨ」や歴史歪曲をしている人たちにどう対応するかということですが、まず議論の俎上に載せないことが第一だと思います。これはその人たちのことを見下しているのではなくて、差別や人権侵害を学問的な裏づけを持つ議論と同じ土俵にあげてはいけないからです。それらが同じ土俵にあがると、デマと学問知が同等のレベルで扱われてしまうので、知識のない人からしたらどっちが本当のことなのかわからなくなるという問題があると思います。 そのうえで、差別を放っておくことは影響が大きいですから、Twitter の場合は通報したり、通報を呼びかけたりすることが大事だと思います。(p.35) →こういう時どうすれば…と思うし、腹が立って言い返してしまいがちだけど、デマとまともな議論をしようとすると相手の思う壺なのかもね。気をつけよう。 史料批判と言われることですが、歴史学の研究をしていくうえで、だれがどんな目的でつくった史料なのかを念頭において検討することが重要です。ネット上の文章や歴史否定の本には、日本側の行為を肯定的に記述した史料などが史料批判といった学問的手続きを無視して恣意的に引用されていて、それを根拠に日本の加害を否定する主張がなされることがあります。それが「学問的」な装いをしていることもあって、そのまま受け取ってしまいかねないのですが、どのような史料か気をつける必要があります。(p.57) 「そんなことをしてもなにも変わらないよ」と冷笑するだけで、現状を変えようとしない人も存在します。権力の横暴を無視すること、冷笑することは不正義に屈することです。 わたし自身はここに書いてきた人びとの話を聞いたり見たりしながら,在日朝鮮人と同じ経験をしていない以上、その苦しさを同じように感じることができないのだろうということも考えています。だからといって、目の前で起こっている差別や不正義を見て見ぬ振りをすることはできません。問題に関わらなくてもいい。考えなくでもいいということ自体が特権であり、考えさせないようにする仕組みが日本社会には存在します。そうした構造に届しないためには、特定の職業・専門分野を持つ人のみならず幅広い人びとが差別解体に取り組む必要があります。(p.145) →最近パレスチナの活動に参加していてすごく思うこと。 朝鮮史や日本の加害の歴史を学ぶのは、第一義的に、加害の歴史の責任と向き合い、被害者の人権や民族自決権を回復したり、記憶していったりするためにあると思います。また、排外主義や民族差別は突加現れたものではなくて過去から一貫して続いていて、こうした社会も自然にできたのではなくて、過去の人びとの選択の結果、構築されたものなわけですよね。 どうしてこのような差別にあふれた社会にいるのか、どのようにそれがつくりだされたのか、そういうことを理解して、現状を変革していくためにはまず歴史をたどることが重要だと思います。(p.180) →加害の歴史の軽視が、デマを簡単に信じてしまい、被害者の思いを無視し、また似たような過ちを犯す土壌を作っている。現状を変えるためにはやはり歴史を学ぶ必要がある。
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