パリの音楽サロン の商品レビュー
19世紀パリの文化を牽引していたのは、サロンであった。サロンの女主人は芸術家を支援し、パリの芸術文化は世界の頂点を極めるのである。
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19世紀後半から1920年代あたりまでのパリの「サロン文化」と音楽の関係を綴った一冊。 何しろ、膨大な人が出てくる。 グノー、ベルリオーズ、フォーレ、ラヴェル、ドビュッシー、ストラビンスキー…といった有名な音楽家はもちろん。 ランボー、マラルメ、ツルゲーネフ、ヴェルレーヌ、コク...
19世紀後半から1920年代あたりまでのパリの「サロン文化」と音楽の関係を綴った一冊。 何しろ、膨大な人が出てくる。 グノー、ベルリオーズ、フォーレ、ラヴェル、ドビュッシー、ストラビンスキー…といった有名な音楽家はもちろん。 ランボー、マラルメ、ツルゲーネフ、ヴェルレーヌ、コクトー、ブルトン。 文学者も、美術家も、ニジンスキーとバレエ・リュス、そして最後にはシャネルが登場。 人脈がネットワーク状に広がっていくさまを、本書では追いかけていく。 例えば。 自身もピアニストとして活躍したニナ・ド・ヴィヤール夫人。 彼女のサロンに来ていたシャンソン作曲家のシャルル・ド・シヴリーの妹マティルドは、ヴェルレーヌと結婚している。 ヴェルレーヌはその後、無頼のランボーを家に住まわせ、夫婦関係は破綻。 一方兄のシャルルはパリ・コミューンの巻き添えを食って、サトリー監獄に収監されたことがあるが、獄中で知り合ったのがパリコミューンで労働運動に関わっていたドビュッシーの父親。 シヴリーの母は実はショパンの最後の弟子の一人で、ピアノ教師として生計を立てていたため、まだ十歳にも満たないクロード少年を母の弟子とする約束をする。 シヴリー夫人は短期間でクロードを育て、見事パリ音楽院のピアノ科に合格させる…。 この一節はいわゆる貴族階層や新興ブルジョアジーのサロンのイメージとは異なるが、ある一つの場を媒介にいろいろな人が交差し、化学反応が起こっていくさまが見て取れる。 今まで聞き知っていたエピソードの相貌が変わって見えてくることもあった。 その一つは、サン=サーンスの献呈譜廃棄事件。 フランクがサン=サーンスに『ピアノ五重奏曲ヘ短調』を献呈し、サン=サーンスは初演でピアノを演奏しながらも、曲が気に入らず、自分への献辞が入った譜面を捨てていった、と聞いたことがある。 サン=サーンスの気難しさを語るエピソードのようにとっていたのだが。 本書ではサン=サーンスも好意を寄せていたオギュスタ・オルメスに、フランクも熱烈に恋していて、オギュスタへの思いが曲にあふれていて、不快に思ったためとされていた。 ちなみに、同曲は他の人にも顰蹙を買っていたとも書いてある。 こういうディテールをみていくと、まずサン=サーンスがちょっとかわいく思えてくる。 そして、周りの人も不快に思うというその曲は一体どんなものなのか、気になる。 いや、たぶん聞いたことがあるような気がするけど… さて。 どんどんつながりが広がっていくと、追っかけるのが大変でもある。 一段落でもぼーっと読んでいると、たちどころにつながりがわからなくなってくる。 幸い、巻末に索引がある。 情報の海におぼれそうになる危険な一冊でもある、かな?
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音楽ってかつては(17世紀)は教会と王様が命じて作らせていた。作曲者も彼らのために曲を提供した。それが18世紀後半、ベートーヴェンからは作曲者が自発的に創作するようになる。芸術になる。とはいえまだまだ王侯貴族からの援助がなければやっていけない。 19世紀、市民社会の到来とともに音...
音楽ってかつては(17世紀)は教会と王様が命じて作らせていた。作曲者も彼らのために曲を提供した。それが18世紀後半、ベートーヴェンからは作曲者が自発的に創作するようになる。芸術になる。とはいえまだまだ王侯貴族からの援助がなければやっていけない。 19世紀、市民社会の到来とともに音楽の保護者はパリではサロンになる。貴族やブルジョアの女主人が、音楽家に出会いと世に出る機会を与えたことになる。これが20世紀ではコンクールになる。コンクールって民主主義の産物で、審査員が協議して優秀者を選ぶ。でも音楽の価値を多数決で測れるのだろうか。パリの音楽サロンって鼻持ちならないけど、優れた目利きが偉大な音楽家を見出した功績はあるよね。彼女たちがいなければドビュッシーは成功しなかったろうな。ましてやサティなんかてんでだし、「春の祭典」も上演できなかったろうなぁ。
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