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東アジアの後宮 の商品レビュー

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2024/03/16
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・中国の後宮 礼記には王后・三夫人・九嬪・二十七世婦・八十一御女の制度が示される(王・三公・九卿・二十七大夫・八十一元士に対応)後代でも各名称は異なるものの概ね同じようなヒエラルキー構造が維持された。 ・漢代の後宮 漢代の後宮は未だ男子禁制が敷かれておらず、後宮内で皇帝以外の種の赤子が出産されている事例もあった。 ・六朝期の皇太妃 皇后は皇太子が即位すると皇太后となるが、皇帝生母が異なる場合は生母は皇太妃の位が創られ、皇太后に準じて尊称された。 ・北魏の皇后・皇太后 鮮卑には部族長の母が政治に参与することが珍しくなかった。道武帝の子貴母死制もそれを払拭することは出来ず、生母の代わりに母親権を行使する者との母子共治の構造が設けられた。政治における尊母文化は、後の武則天の即位に繋がる源流と言える。 ・唐皇帝の生母とその追号・追善 唐朝では武韋の禍の後、皇后を立てることを避け、皇子が即位した後にその生母を皇太后に立て、皇帝陵への倍葬もされるようになった。唐代の後宮は制度として不透明な時期であった。 [唐代の宦官] 唐初では宦官は官位を低く抑えられていたが、玄宗期に高力士が信任により政治に関与するようになる。その後も個人的信任により禁軍の指揮官に任じられた宦官が権力を握る。更に徳宗期以後は、宦官の禁軍指揮官就任が常態化し宦官勢力が確立される。高位の宦官は更に妻帯・養子によって一種の階層を確立する。 ・契丹の祭山儀をめぐって [宋代における宦官の一族] 宋代の宦官は妻帯・養子が一般的となり、代々皇帝家に仕える家系も出現した。宋代の宦官禍が少ない遠因に、宦官世家による心情の安定を提議する。 ・明代の後宮制度 明の後宮制度は洪武帝が作り上げ、外戚の禍を抑える工夫がされていた。後宮女性は民間から選ばれ、容姿に優れた后妃と識字能力のある女官に分かれていた。后妃は外戚の背景がないためにたとえ皇后となってもその地位は不安定で、皇子の有無や皇帝の好悪で地位が左右された。女官は後宮の運営ひいては政治から后妃や宦官を遠ざけるために置かれていたが、後に宦官にその職務を取って代わられ一定の職務に従事ることとなる。 ・清代后妃の晋封形式と後宮秩序 清の後宮は壺化粛雍で整然とし、寵妃や外戚の台頭は少なかった。清代では基本的に、初封から一級ずつ晋封して地位を上げていくが、祝賀の際に行われる一斉晋封では同じ妃嬪が連続して一斉晋封のリストに上がらないように考慮していた。また、宮女への折檻・太監への過度の親密な関係・政治への関与、などで簡単に降格された。こうした努力で清後宮は壺化粛雍を成した。

Posted byブクログ