リアリティ+(下) の商品レビュー
下巻は、より形而上学的に思考を深めていく。著者は「哲学的ゾンビ」でも有名なデイヴィッド・J・チャーマーズ。意識の学究が専門だ。「哲学的ゾンビ」とは、肉体に意識を持たない人間という思考実験。アバターやVR世界をヒントとして、意識の探索は続く。 ― 哲学者のモーガン・ラックは200...
下巻は、より形而上学的に思考を深めていく。著者は「哲学的ゾンビ」でも有名なデイヴィッド・J・チャーマーズ。意識の学究が専門だ。「哲学的ゾンビ」とは、肉体に意識を持たない人間という思考実験。アバターやVR世界をヒントとして、意識の探索は続く。 ― 哲学者のモーガン・ラックは2009年の論文「ゲーマーのジレンマ」で、ほとんどの人は、バーチャルの殺人(ノンプレイヤー・キャラクターを殺すこと)は道徳的に許せるのに、バーチャルの小児性愛は許せないと指摘している。性的暴力も同じだ。1982年に発売されたカスターズ・リベンジアタリ社のアダルトゲーム「Custer's Revenge』では、ネイティブアメリカンの女性が性的力の対象となっていて、大部分の人が道徳的にまちがっていると感じた。これは哲学的な謎である。バーチャルの殺人と小児性愛とのあいだに、どんな道徳的な違いがあるのか?両方とも他人に直接の害を与えるわけではない。 ちょっと切り口の異なる上記文章が気になった。これだけについて考えるなら、単に、マタイの福音書で、「姦淫してはならない」という戒めに加えて、「情欲を抱いて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯した」と述べたキリスト教的、罪の意識があるからだろう。これはキリスト教の信者に限らずという事だが、嫌悪感についての文化的刷り込みに過ぎないという気がする。牛そのものを見ても美味しそうと思わないが、魚そのものを見て、おいしそうと思う「後天的な意識の形成」によるのではないか。 ―「意識する心」の中で、私はこれを(フェーディング・クオリア(ぼやけていくクオリア)議論)と名づけた。というのも、意識経験の質(クオリア)は、徐々に薄れていくかもしれないという見方に焦点を当てているからだ。機械が意識を持つことに懐疑的な人がフェーディング・クオリア議論でとりそうな立場はふたつあるようだ。まずひとつ目、意識は突然消えてしまう。つまり、ある段階で1個のニューロンが入れ替わるだけで、完全に意識がある状態からまったく意識のない状態になる。この特殊な不連続性は、自然界では見られないものだ。おそらく、1個のニューロンをとり替えるだけで意識が停止するなら、脳のかなりの部分も停止するはずだ。しかし、優秀なシミュレーションに置きかえられるのならば、残りの脳は影響を受けない。したがって、1個を置きかえても機能は維持されるに違いない。さらにこの事例をより一般化して、重要なニューロンを1個単位ではなく、より小さなレベルで一部分ずつ置きかえていくやり方をとることができる。そうすれば最終的に、その交換が完全に意識を消滅させるような重要なクォークを見つけられるかもしれない。だが、この(重要クォーク説)は、重要ニューロン説よりも、ありえないように思われる。意識が突然消えてしまうよりも、徐々に消えていくほうがありそうだ。ふたつ目の選択肢は、意識は徐々に薄れていき、完全ではないものの、ほとんど消えかけているという状態に到達する。あなたの元の意識の一部は残っていて、一部は消えている。あるいは、すべてが少しずつ薄くなっているのかもしれない。しかしあなたのニューロンは完全シミュレージョンに置きかえられているので、あなたの行動はまったく正常だ。 また違った文脈での抜粋だ。著者は、脳機能の欠損と置換に対し、意識の実在を物理的に探せるという話をしている。これは面白い思考実験だが、「行動を司る脳機能」と「内受容感覚・記憶を司る脳機能」に関し、「記憶」が入れ替わってしまえば、そこで人格が切り替わるという気がする。PCに例えるとシンプルだが、CPUメモリは置換しても機能置換にしかならぬが、HDDが置換されると別モノになってしまう。同時に、習得した機能としてのソフトウェア、アプリケーションが置換されると思い通りに身体が動かなくなる気がする。 色々と考えさせられて、一人別の思考実験に妄想を働かせていたりする。この読書の楽しみ方は、著者のお題を自分なりに考える所にあると思った。
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トロッコ問題などやっと誰でもがわかる問題がでてきた。ミルグラムなどの実験も出てきたので少し心理関係のことが説明されている。 ただ、学部生が読んで卒論に仕えるか、ということでは不明。
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ヴァーチャル・リアリティを論じながらその思考/議論は哲学や脳科学、テクノロジーといった分野を自由自在に横断する。あまりにレンジが広いこともあり、私はこの本を理解できたとは口が裂けても言えない。再読・再再読が必要となろう。闇雲にヴァーチャル・リアリティを称賛するのではなく、否定する...
ヴァーチャル・リアリティを論じながらその思考/議論は哲学や脳科学、テクノロジーといった分野を自由自在に横断する。あまりにレンジが広いこともあり、私はこの本を理解できたとは口が裂けても言えない。再読・再再読が必要となろう。闇雲にヴァーチャル・リアリティを称賛するのではなく、否定するのでもなくまず多彩な角度から丹念に眺め、捉え直す。その姿勢がそのまま本書の議論の濃さとつながっているのだと思う。この本は確実に、これから登場しうる議論のたたき台として重宝するのではないか。あるいは安易な議論を封じる要石となるのでは
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