終わらない戦争 復員船「鳳翔」"終戦"までの長き航路 の商品レビュー
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日本海軍で空母として設計された最初の艦船(空母として設計されたのは世界でも初めてだという)が、ほとんど奇跡的に終戦までほぼ無傷で生き残り(1945年7月28日の米軍機1千機による呉空襲でも江田島島民による擬装のおかげで標的にならなかったという)、復員船として約1年間9回もの航海を果たす。その船に通信員として乗り組んだ山本重光氏(元海軍二等兵曹、2023年1月没、享年96)の話を軸に、これまで戦後史の中で埋もれていたとも思える復員船業務に光を当てたノンフィクション。珊瑚会(海軍経理学校三十五期(1945年3月卒業)同期会)編「あゝ復員船-引揚げの哀歓と掃海の秘録」(騒人社、1991年発行)に載せられた手記からも多くの引用あり。 著者の思い入れのせいか重複する記述が多く、同じことに関する新聞記事を何種類も読んでいるような感じがしてくる本ではあるが、あまり大きく取り上げられてこなかった史実を丹念に追求した努力には敬服。空母「鳳翔」についてはどこかで読んだかもしれないが、記憶には残っていないし、戦後復員船となったことも知らなかった。南極観測船「宗谷」が復員船として運用されたこともこの本で初めて知る。「里の秋」という童謡も題名だけでは思い出さないが、その2番、3番が復員、引揚げを主題としたものだというのも共有すべき発見だろう。
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世界初の空母「鳳翔」は、呉港空襲を生き残り、 戦後、復員船として新たに生まれ変わる。 本書は、海軍通信兵・山本重光の復員船・乗務員としての日々を取材し、 また、同じ任務についていたそれぞれの証言も拾いながら、 復員船に焦点を当てる。 終戦後、海外に残された、日本人は、軍人民間人...
世界初の空母「鳳翔」は、呉港空襲を生き残り、 戦後、復員船として新たに生まれ変わる。 本書は、海軍通信兵・山本重光の復員船・乗務員としての日々を取材し、 また、同じ任務についていたそれぞれの証言も拾いながら、 復員船に焦点を当てる。 終戦後、海外に残された、日本人は、軍人民間人を合わせ、 660万人が取り残されたという。 当時の日本の人口が7200万人だったことを考えれば 1割にあたる。 山本は「鳳翔」で赤道を8往復し、いわゆる南洋の人びとを救い、 旧満州へも向かう。 「鳳翔」が引退・解体されると、小型の海防船に移り、 復員船の仕事を続けた。 当時ハタチそこそこの若者は、自ら、この道を選んでいる。 というのは、敗戦時、上官から「長男は帰れ。次男以下は船に残って欲しい」と 言う言葉に応じ、後には上官から「おまえは大学へ行け、あとは俺たち年配者が 引き受ける」とまで言われたのに残り続けたのだ。 それは復員船に乗り込んでくる人たち、ガリガリに痩せた復員兵、 笑顔の全くない引き揚げ者・・・ を連日、見続けたからだろう。 このあたり、当事者でなければ、わかりえることではない。 今まで、引き上げの苦労は、さまざまな本やメディアで見聞きしてきた。 でも、そのための手段については意識していない。 「引き揚げ船」に乗り込んだ・・・で、おしまい。 その船が、どんなものであり、どんな人びとが動かしていたのかなど 考えたことも無かった。 その乗務員とて人生ががあり家族がいるのに。 しかも俸給は雀の涙。 かつて北米航路の豪華客船だった氷川丸が、 病院船となり、後に復員船として船の命を終えたことは おぼろに聞いたことがある。 今、山下公園で、ふたたび、豪華客船時代の姿に修復を施され、 美しい姿を見せる、あの船だ。 まだまだ知らないことばかり。 体験者が存命のうちに・・・と時間との勝負だ。
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