民藝図鑑(一) の商品レビュー
・柳宗悦「民藝図鑑」第一巻(「ちくま学芸文庫」)を読んだ、といふより見た。柳宗悦といへば民藝、民藝といへば柳宗悦と言つても良いくらゐの関係にある。ただ、それ 以前に、私はこの人と民藝のことを知らない。そこで読んで、 いや見てみようと思つたのが本書である。全3巻のうち第一 巻、陶磁...
・柳宗悦「民藝図鑑」第一巻(「ちくま学芸文庫」)を読んだ、といふより見た。柳宗悦といへば民藝、民藝といへば柳宗悦と言つても良いくらゐの関係にある。ただ、それ 以前に、私はこの人と民藝のことを知らない。そこで読んで、 いや見てみようと思つたのが本書である。全3巻のうち第一 巻、陶磁、民画、玩具等収録である。本書は「日本民藝館の初めての総合的な蔵品目録」(白土慎太郎「解説 『民藝図鑑』 と柳宗悦」249頁)であるといふ。柳の死によつて全巻完結にはいささか時間がかかつたやうだが、「全巻を通覧すれば、柳没後の編集となる第三巻も含 めて、造本に対して独特の見識を持っていた柳の美意識が隅々まで感じられる内容となっている。」(同前250頁)らしい。文庫本にその面影があるとは思へないが、それでも写真などは当時のを復元すべく努力してゐるはずである。それは柳の、「この図録の第一の目的は『民藝』の美しさ、つまりその美的内容や価値を視覚的に人々に示すことにある。つまり標準的な民藝品を、一目で分かるようにすることにある。(中略) この図録を図鑑と題した所以である。鑑は鏡と同義で、手本の 意味になる。」(15〜16 頁)といふ本文冒頭の「本図鑑について」とも呼応してゐよう。つまり、本書は民藝品のお手本の載る図録なのである。 ・冒頭にカラー写真の頁がある。私がいかにも民藝らしいと 思ふのは大津絵や三春人形、鴻の巣人形である。茶碗や壺もある。しかし、これらにはどうしても有銘の作を思ひ出させる。 ここにあるのはさういふものはないらしいのだが、それでも私には民藝といへば三春の張り子や鴻の巣人形である。誰もがさう思ふのではないかといふのは単純に過ぎようか。大津絵などは作者不明の大量生産品、それ ゆゑに土産物としても売られ た。張り子や人形も同様で、作者不詳で大量に作られたものの一つがここに載るにすぎない。 柳はそれらで、例へば77の女虚無僧には、「充分名もない民 画に熟し切っているのは、その描写の自由な略化からも推察できる。」(168頁)と書き、無銘や「略化」を強調してゐる。有名な86の鬼の三味線には、「早い筆の運びを見ると、 如何に無造作にためらいなく、沢山描き続けられたかが分る。」(182頁)と書き、鬼の行水には、「いつものと違って線は寧ろ細いが、自由でどこにも弱いところがないのは、多くの数を描く事によって得た美しさだと云ってよくはないか。」(183頁)と書く。名を売る必要がないからむしろ自由に書きたいことを書きたいやうに書けるといふことである。 さうしてその絵に慣れてしまへば、迷ふことなく一気呵成に書ける。「多くの数を描く事によって得た美しさ」とはそのやうなものであらう。これは三春張子でも同様で、同じものを大量に作るからこその美であらう。94の義経と弁慶、そして101の鴻の巣人形には、「是等の人形を見ると、平和な楽しい一世界が、当時の家庭に社会にあった事が分るではないか。」と書いてゐる。あくまでも一般家庭で愛用されたことが前提である。有銘作品はさうはいかない。却つて用途が限られてしまふ。例へば壺だと、茶壺はもちろん、20火消壷や16 せんべい壺もある。茶会で使ふ のは別にして、かういふのは有銘であることが邪魔になりさうである。その銘によつてその品の値が上がつてしまふ。かうなると一般庶民は使へない。民藝とは言へなくなる。さういふことなのだらうと思ふ。有銘でも 気楽に、火消し壷でも醤油壺でも、日常的に使へれば良い。しかし、さうはいかないのであ る。具体的な品々で民藝の「手本」を見せてくれる本書はありがたいものであつた。
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