サルトル 全世界を獲得するために の商品レビュー
本書の課題について著者は『『存在と無』という一書をあらためて読みなおしてみること』であり、『存在と無』については『サルトルの名とともに不当な忘却の淵へといったんは置きざりにされたこの古典、哲学者自身すら過ぎ去ったあやまりとして封印しようとした前世紀前半を代表する哲学書のひとつ』と...
本書の課題について著者は『『存在と無』という一書をあらためて読みなおしてみること』であり、『存在と無』については『サルトルの名とともに不当な忘却の淵へといったんは置きざりにされたこの古典、哲学者自身すら過ぎ去ったあやまりとして封印しようとした前世紀前半を代表する哲学書のひとつ』と書く。『存在と無』の副題は『現象学的存在論の試み』であり、フッサールからの流れとしても興味深い。 したがって、本書のサルトル論のメインは、実存主義者を自称する前の時期を対象とする。これは新鮮だった。サルトルは「哲学者」としてよりも「行動する知識人」としての側面から語られることが多いからだ。 著者は『そのころ知られるようになったサルトルの主著『存在と無』の思考はヒューマニズムとほど遠いものと考えられていた』と書くが、本書を読んで私も半ばそう思った。一方で、本書の記述を圧縮して書くと、意識=対自=無=自由=過去からの切断→時間性=未来への超越、であり、本書の先(つまり『存在と無』の先)に、実存主義やヒューマニズム、倫理も見えてくるだろう、とも思った。 本書の記述では、無とは、否定すること、差異である。行動とは現状への否定であるから、行動とは『無』への接近である。そもそも無という言葉が、そのような人間的な意味なのか、その人間的な意味を世界に適用するのが妥当なのか、私には分からなかった。 カフェ、タバコ、デートの場面、アパート、雪原等々、サルトルの元の記述に由来する部分からして日常での例が非常に多く、印象的であった。他方、フランス語の文章の特徴なのか、サルトル自身の文章の特徴なのか、やたら詩的な言葉遣いが多く、理解への妨げになるように感じた。私の感性には、ドイツ語圏の哲学者の文章の方が合うようだ。 『対自はみずからの現在ではなく、対自とはじぶんではないもの、みずからの未来への超越である。対自は未来への超越であることで自由なのである。』
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『存在と無』を読んだあとに読んだ。当時はあれを小説を読むような態度でたのしんで、それになにしろ一年かけて読んだものだから、要約みたいなものを示すなどということはぼくには到底できなくて、それをこんなにも手際よく、コンパクトにまとめられるだなんて、まったくとんでもないことだと思った。
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思想・哲学におけるサルトルとは、と手にしてみたものの思いの外重い。手引書を消化してから原著と突き合わせて読むほうがいいか。
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