徳川家康と9つの危機 の商品レビュー
後の歴史を知るものとしては、鉢植えのような移封は珍しくなかったが、当時の感覚にしたら、「あまりにもむごい措置」であったことをあらためて痛感した。
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桶狭間の戦い 三河一向一揆 三方原の戦い 長篠の戦い 信康殺害 本能寺の変 伊賀越え 石川数正出奔 関東移封 関ヶ原合戦 を9つの危機として取り上げている。 まず、ざっと通説をおさらいし、さらに最新の研究に基づく見解を紹介、さらにそれに対する反論も紹介するという論理的網羅的に納得の構成・内容となっている。 谷口克広氏の活躍が衰えてきた昨今この著者の書籍をあさってみようかと思う。
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徳川家康が、今川義元の人質になっていた時代から関ヶ原の戦いまでの9つの危機について、家康を中心とした事件を追い、その時に家康はどうやって危機を乗り越えていったかを詳細に説明した一冊。 こうやって読んでいくと、初めは今川義元が織田信長に討たれ、武田信玄が病死、織田信長が明智光秀の謀反で自害、豊臣秀吉も病死、大老前田利家も病死し、家康にとっての大敵・目の上のたんこぶが、自分が関わらずに死んでいったことによって、徐々に上の地位に上がっていったとも言えるのではないか? これは偶然か? それともそれまで我慢したことによって日の目を見ることができたのか? 家康の75年の生涯は非常に面白い。
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徳川家康の生涯における9つの危機を紹介した一冊。 いわゆる三大危機、三河一向一揆、三方原、伊賀越えはもちろん、戦争としては桶狭間、長篠、関ヶ原、戦争以外でも信康殺害、石川数正出奔、関東移封など、歴史のターニングポイントとなる部分を解説しています。通説に従った解説をただ単にするので...
徳川家康の生涯における9つの危機を紹介した一冊。 いわゆる三大危機、三河一向一揆、三方原、伊賀越えはもちろん、戦争としては桶狭間、長篠、関ヶ原、戦争以外でも信康殺害、石川数正出奔、関東移封など、歴史のターニングポイントとなる部分を解説しています。通説に従った解説をただ単にするのではなく、このあたりはさすがに著者らしく、最近の研究結果などを紹介しながら、単なる通説だけではない視点も提供してくれますので、これまでの歴史とは違った見方をすることができます。 この時期になれば様々な資料も残っており、新たな発見やいろいろな解釈も生まれてきますので、今後、新たな学説も出てくると思いますので、今後も楽しみにしたいと思っています。 来年の大河の主役ですので、いろいろな本が出版されてくると思います。事前知識として手に取りつつ、大河でどのように描かれるのか楽しみに待ちたいと思っています。 <目次> 第1章 桶狭間の戦いー大混乱の中で下した決断 第2章 三河一向一揆勃発ー国内争乱、家臣の離反 第3章 三方原の戦いー家の存亡と意地をかけた出撃 第4章 長篠の戦いー信長の援軍で勝利 第5章 松平信康殺害事件ー原因は家臣団の対立か 第6章 伊賀越えー最大の窮地を突破 第7章 石川数正出奔騒動ー秀吉への臣従を決断した背景 第8章 関東移封ー小田原征伐を惹起させた処罰か 第9章 関ヶ原合戦ー危機をチャンスに変えた戦略
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歴史を習った私たちは、徳川家康は戦国時代を締め括って江戸幕府を開設した成功者というイメージがあります。とはいうものの、数々の歴史小説や大河ドラマを見ることで、家康は若い特に苦労をしたものだと理解していました。この本の著者は、現在NHKで放送されている「歴史探偵」で解説をしてくださ...
歴史を習った私たちは、徳川家康は戦国時代を締め括って江戸幕府を開設した成功者というイメージがあります。とはいうものの、数々の歴史小説や大河ドラマを見ることで、家康は若い特に苦労をしたものだと理解していました。この本の著者は、現在NHKで放送されている「歴史探偵」で解説をしてくださる河合氏で、初めて彼の本を読みました。この本は最新の研究をベースにあの家康が経験した9つの危機について解説されています。 今川義元をはじめ、信長、秀吉とともに時代を過ごしてきたわけですが、彼が日本を統一して幕府を開くまでには相当の苦労をしてきたことがわかりました。15代続いた仕組みを作り上げたことも素晴らしいことですね。 以下は気になったポイントです。 ・北条早雲の子として知られる氏綱だが、父の早雲は自らを北条と称したことはなく、氏綱の時に初めて北条姓を名乗るようになった、この苗字は鎌倉幕府の執権であった「北条」からとったもので、新興勢力である彼が関東の武士たちを支配するために伝統的なこの苗字を拝借したのである(p19) ・徳川広忠は今川義元に助けを求めるために家康を人質に差し出したのではなく、降伏した証として織田信秀に我が子家康を指したという異論がある(p23)家康は14歳で元服し、松平次郎三郎元信と名乗ることになった、「元」は烏帽子親となった今川義元の一字を拝領したものである、次郎三郎は父や祖父の俗名、「信」は先祖にそれを持つ者が何人もいたからだろう(p26)1563年3月、家康は信長の娘・徳姫を信康(長男)の嫁にする約束を取り交わし、7月には元康から家康へ改名、独立大名となることを宣言した(p43) ・少なくとも桶狭間の戦いのあった1560年中には、家康は氏真とは敵対していない、明確に離反するのは翌年4月に今川方の三河国牛窪に兵を入れた時、氏真は家康が敵対したと記しており両者の関係が決裂したことがわかる(p37) ・三河一向一揆は、三方ヶ原の戦い、伊賀越えとともに「神君三大危機」と呼ばれる(p44) ・1569年5月に今川氏真は掛川城を出て北条氏の保護を受けることになった、これにより遠江国は徳川の手に落ち、今川氏は消滅することになった、翌年家康は三河の岡崎城から遠江国の浜松城(引間城を改修)に拠点を移した(p64) ・天下布武とは、全国を平定して武家政権の樹立を目指すという意味ではない、室町幕府の将軍政治を復活させ、畿内(天下)に静謐を取り戻すことだと解釈されるようになった(p65) ・近年の研究の進展によって、戦国時代の通説は大きく塗り変わってきている、本来、家康の危機と言われてきた「金ヶ崎の退き口」激闘で苦戦したと言われる「姉川の戦い」もどうやら史実ではなさそうである(p74) ・長篠の戦いで武田軍が大敗した理由は、勝頼の慢心か、信長の足軽鉄砲隊の攻撃か、それとも背後から敵が来たから、どれもそうではないと考えられる。信長方の兵が武田方の倍以上いたのが最大の原因であろう(p103) ・清洲会議で所論となったのは、名代(三法師が幼少であるための暫定的な家督)として信雄・信孝のどちらが務めるかということであった、ところが両者ともに名代になることを目指し譲らなかったので、宿老は両者とも名代にせず、幼少の散歩うしを当主に据えて、宿老を中心に今後の織田家の運営を進めることで決したという視点もある。賤ヶ岳の戦い以降、秀吉は天下人として振る舞い始める、信雄は尾張・伊勢・伊賀の3カ国を領有することになった一方で、秀吉から「二度と天下に足を踏み入れぬ」ようにされた(p159) ・小牧長久手の戦いは家康の勝利だったように言われるがその認識は正しくない、実際の戦いは11月まで続いている(長久手の勝利は4月)戦後、講和といっても事実上の降伏であり、領地も伊賀国と南伊勢を削られ、所領は尾張一国と北伊勢5郡のみとなった、こうして戦う名分を失った家康や兵を引いた(p165) ・豊臣政権との対決は避けられない状況になったが、秀吉はにわかに徳川征伐を中止した、それは天正大地震であろう。(p175) 2022年10月2日読了 2022年10月9日作成
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