1,800円以上の注文で送料無料

日本人が夢見た満洲という幻影 の商品レビュー

5

1件のお客様レビュー

  1. 5つ

    1

  2. 4つ

    0

  3. 3つ

    0

  4. 2つ

    0

  5. 1つ

    0

レビューを投稿

2023/01/08

かつて日本が占領していた大連、旅順、そして満州に残る主に建物の写真と、当時の時代背景を説明してくれる。 帝国ロシアの南下阻止と、自ら帝国となりたかった日本の思惑から開戦された日清戦争と続く日露戦争。 中国最後の帝国となった清国は、アヘン戦争でイギリスに叩かれ、その後ロシアや列強...

かつて日本が占領していた大連、旅順、そして満州に残る主に建物の写真と、当時の時代背景を説明してくれる。 帝国ロシアの南下阻止と、自ら帝国となりたかった日本の思惑から開戦された日清戦争と続く日露戦争。 中国最後の帝国となった清国は、アヘン戦争でイギリスに叩かれ、その後ロシアや列強の仲間入りした日本に抗する力などなく、両国の勢力の交代があった遼東半島や満州には、両国によって建設された建物が多く残されている。 それを著者が主に歩いて撮影したと言う。 同じように多くの建物を建造された朝鮮半島では、戦後殆ど日帝の悪の象徴として破壊されたのに対し、中国では多くの建物が利用されているようだ。ここからもお国柄が感じられる。 「ソ連兵へ差し出された娘たち」でも、当時の様子ご生々しく語られていたが、本書でも自分にとっていくつかの新たな発見があった。 1945年(昭和20年)8月9日、日ソ中立条約を破ってソ連が満洲に侵攻してきたが、ソ連侵攻の報をいち早くキャッチした関東軍は在留邦人には知らせず真っ先に特別列車を仕立てて朝鮮経由で帰国した。国境沿いに定着している満蒙開拓団を人間の防波堤として使い、ソ連の南下を少しでも遅らせるためだった。開拓村は次々とソ連兵に襲撃された。金目のものは略奪され、男は殺され、女は凌辱された。開拓民たちは足手まといになる子どもに毒を飲ませて殺し、あるいは満人らに売り、半狂乱の状態で逃げ惑った。全員で青線カリを哪って集団自決した村もあれば、ソ連兵の機銃掃射で全滅した村もある。敗戦時に満洲に取り残された日本人は170万人とも155万人ともいわれている。満洲国が崩壊した後も、中国共産党と中国国民党はいまだ内戦状態にあり、そこに暮らす人たちの身の安全は誰も保証できない状況だったた。ソ連はそのような権力の空白部を狙って南下を続けた。 外務省は「居留民はできるかぎり定着の方針をとる」と、そして大本営は外地に居住している日本人は帰国するな、と発表する。つまり日本政府は棄民政策をとることを決定したのだ。情報統制によってそのことすら大多数の日本人難民たちは知らなかったに違いない。発疹チフスや肺炎にって病死したり、凍死、餓死、発狂する人が続出し、27万人の満蒙開拓団のうち約8万人が最初の冬を越すことができずに死亡したと言われている。 この満洲の状況をなん何とか本国に伝えたのが、鞍山の昭和製鋼所に勤務していた丸山邦雄とその友人の新甫八朗、武蔵正道の3人である。彼らは懇意にしていたカトリック教会の司教らの手引きで天津から密出国して日本へ戻り、幣原喜重郎首相や吉田茂外相、佐藤栄作鉄道総局長官らに面会して、170万人もの満州在留邦人の早期帰国を訴えた。 しかし吉田茂に「主権が奪われた状態ではわれわれにはどうすることもできない」と言われ逆に発奮。直接マッカーサー連合国軍総司令官に面会を申し込み、その一方で丸山は「救済代表団」を組織して、満州移民を帰国させるための受け皿作りに奔走する。 マッカーサーと直談判したことによって事態は急展開し、最終的に米軍が輸送艇を派遣することを同意する。 こうして「葫芦島在留日本人送還事業」は開始されることになった。送還事業が行われた港は葫芦(ひょうたん)島で遼寧省の南東部遼東湾に面したひょうたん型の小さな半島にその港はある。 終戦時も中国全土は国民党と共産党の内戦が続いていたが、この葫芦島周辺は国民党の牙城を守り続けていた。国民党はアメリカによって支援されていたため、米軍輸送艇を着岸させるためには葫芦島が都合よかったらしい。現在、葫芦島の港湾は立ち入り禁止地区となっている。 その年の末までに101万7549人の在留邦人が葫芦島から帰国することができ、最終的に1948年(昭和23年)までに105万1047人が帰国した。 あらためて、戦争が起こると結局見捨てられるのは市井の人。起こしてはいけない。起こした人は真っ先に逃げるものだ。 また、ロシアの変わらない姿に驚愕する。 次世代を担う人々に僅かな希望を持ちたい。

Posted byブクログ