米沢海軍 その人脈と消長 の商品レビュー
印象に残った箇所については、以下のとおり。 【P40】慶応四年六月、太政官嘆願書の一件以来結ばれた勝海舟と宮島誠一郎の親交関係が、米沢の青年たちを海軍に進出させる直接の契機となった。 【P52】初代海軍卿に就任した勝海舟は、兵学寮への入学を、旧佐幕派諸藩の青年たちの将来の途を...
印象に残った箇所については、以下のとおり。 【P40】慶応四年六月、太政官嘆願書の一件以来結ばれた勝海舟と宮島誠一郎の親交関係が、米沢の青年たちを海軍に進出させる直接の契機となった。 【P52】初代海軍卿に就任した勝海舟は、兵学寮への入学を、旧佐幕派諸藩の青年たちの将来の途を拓くものとして大いに期待していた。 【P147】これに対して井上は、「自分でも正しくないという事には、どうしても賛成できません。私は長年御奉公して来ましたが、常に正しい事をやる。不正な事はどこまでも反対する方針で来ました。(中略)自分はこういう事態に至らしめた道徳上の責任は負います。これで現役を退かれても少しも悔むところではありません。正しき事が通らず、不正がまかり通るようでは、そんな海軍では働く所がありませんから、辞めさせて下さい」と突っぱねた。 【P190】日本海軍の人事の基本は、海兵の卒業年度と成績、いわゆるハンモック・ナンバーによって成り立っている。米国海軍のように、機動作戦にたけた指揮官が、年次を超えて抜擢されるということはなかった。 【P214】サイパンのマタンシャに近い地獄谷の洞窟にあって、月を眺めている南雲の胸中にはしきりと、同郷の志士雲井龍雄の「死ハ畏レズ 生ハ倫(ぬす)マズ 男児ノ大節 光日ヲ争フ」の辞世の詩が去来していた。
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