市川雷蔵と勝新太郎 の商品レビュー
(01) 1960年代に斜陽産業としての映画を経験した二人の俳優,市川雷蔵と勝新太郎のフィルモグラフィーが構成の中心を占める.二人にはいくつかの共通点があるが,同時期に大映に所属し,シリーズものとも言われるプログラムピクチャーに参加しており,主演俳優(*02)としてそれぞれの代表...
(01) 1960年代に斜陽産業としての映画を経験した二人の俳優,市川雷蔵と勝新太郎のフィルモグラフィーが構成の中心を占める.二人にはいくつかの共通点があるが,同時期に大映に所属し,シリーズものとも言われるプログラムピクチャーに参加しており,主演俳優(*02)としてそれぞれの代表作「眠狂四郎」シリーズと「座頭市」シリーズを担っていたところにある. 二人ともお互いに意識する存在として,共演せずとも,交流があった様子も描かれている.俳優としてのキャラクターや性質も対照的であるが,おそらくその点も互いを意識するなかで築き上げられたものであるのだろう.例えば,勝が「兵隊やくざ」シリーズで陸軍兵を演じれば,雷蔵は「若親分」シリーズで海軍士官あがりを演じていた.そこには大映の永田雅一の差配も大いにあっただろうことを読み取ることもできる. (02) 他にも,大映関係では,長谷川一夫をはじめ,田宮二郎や山本富士子,中村玉緒,若山富三郎といった同時代の映画で演じた者たちのほか,森一生,三隅研次,田中徳三,池広一夫,増村保造らの監督らとともに大映の時代劇を築き上げてきた様子も描かれている.また,中村錦之助,石原裕次郎,三船敏郎といった東映,日活,東宝のスターたちと勝や雷蔵の距離感も興味深い. さらには,歌舞伎界との人事交流や梨園の隠微で陰湿な世襲などと映画界のオープンさも対比されている.
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筆者独特の、取材無し、記録と文献から作りだす一代記。起こったこと、過去に書かれてあることのみに焦点をあて、それを筆者の解説(とはいえ筆者フィルターがかかりすぎているわけではなく、確かにそうとしか見えない解説)とともに読み進められる。 映画の隆盛から衰退までのあっという間の15年...
筆者独特の、取材無し、記録と文献から作りだす一代記。起こったこと、過去に書かれてあることのみに焦点をあて、それを筆者の解説(とはいえ筆者フィルターがかかりすぎているわけではなく、確かにそうとしか見えない解説)とともに読み進められる。 映画の隆盛から衰退までのあっという間の15年間(1955年~70年)を、雷蔵と勝新を中心に映画会社並列で語っているため、全体史のなかでの彼らを読み取れる。目に見えるように映画産業が衰退していったこと、そのなかで三船と裕次郎のプロダクション設立は存外に早かったこと、そして結果ほぼ同格の4大スターが自身のプロダクションを作る中で雷蔵のみは映画会社を離れることなく劇団を作ろうとしたことに改めて気付かされた。 そして、勝新は座頭市でブレイクする前は鳴かず飛ばず、が定説であるが、なかなかどうして、長谷川一夫、雷蔵の三本柱の一角を占めていたことは、上映記録からもよくわかる。また不知火検校から座頭市物語まで、案外長かったのが認識出来たのも、時系列で追う当書を読んでこそ。 これらは他の本に普通に書かれている事実の組み合わせであるが、見方・読み方の違いにより今まで自分は全くその流れに気づいていなかった。筆者の実在の登場人物の内面に入り込まない、起こった表層・書かれた表層だけを語る切り口はそういった気づきを与えてくれるだけに貴重。 また、当書でも文末に、もし健在であれば雷蔵の歌舞伎復帰は果たせたか、の簡単な考察はあったが、あっさりと「歌舞伎座の舞台にたてても、歌舞伎の舞台にはたてなかった」としている。 そういうものか、と昨今の歌舞伎をみても納得せざるを得ない。
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歌舞伎から映画へ移り成功した最後の 世代、市川雷蔵と勝新太郎―― 市川雷蔵と勝新太郎はともに一九五〇年代から六〇年代にかけて、大映、いや日本映画界を支えた俳優である。 歌舞伎から映画へ移った俳優たちはみな、世襲と門閥で配役が決まる歌舞伎の世界ではいい役につけず、映画という...
歌舞伎から映画へ移り成功した最後の 世代、市川雷蔵と勝新太郎―― 市川雷蔵と勝新太郎はともに一九五〇年代から六〇年代にかけて、大映、いや日本映画界を支えた俳優である。 歌舞伎から映画へ移った俳優たちはみな、世襲と門閥で配役が決まる歌舞伎の世界ではいい役につけず、映画という新天地を目指した。そして雷蔵の死と大映の倒産で「時代劇映画の時代」はとりあえず終わり、残った時代劇スターたちの活躍の場もテレビへ移行した。雷蔵と勝は、歌舞伎から映画へ移り成功した最後の世代だった。 力作。まったく知らなかった作品がいくつもあった。観る機会はあるだろうか。
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