教科書に載せたい日本史、載らない日本史 の商品レビュー
事実が変わるのではなく、新たな発見などによって歴史が変わることもあることが面白い。 また、北里芝三郎、渋沢栄一ともに官とは一線を隠しながらも、お札になるというエピソードも目から鱗。
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「歴史の教科書」というモノには「こういうことになっている」という「定説」に依拠した記述が載っている。そしてその「定説」に依拠した記述に基づいて「歴史の…」というように多くの人達が記憶に留める訳だ。 そういう「定説」に関しては、時日を経て「新しい史料」が出現する、または在る複数の史...
「歴史の教科書」というモノには「こういうことになっている」という「定説」に依拠した記述が載っている。そしてその「定説」に依拠した記述に基づいて「歴史の…」というように多くの人達が記憶に留める訳だ。 そういう「定説」に関しては、時日を経て「新しい史料」が出現する、または在る複数の史料を深く検討するというようなことが積み重ねられる中で「“旧”定説」とでも呼ぶべき感になり、「“新”定説」が台頭する。そうなれば「歴史の教科書」というモノの記述も何時の間にか変わることになる。或いはそうならざるを得ない。 本書の著者は、この「“新”定説」が「歴史の教科書」に載るという状況が「少し目立つようになっている…」ということを指摘して、テレビ番組や本で紹介するようにするという動きの草分けのような人である。そういうことで、本書でもその「“新”定説??」という話題が色々と取上げられ、なかなかに興味深い。 加えて本書では、教科書のようなモノで広く紹介されていないにしても、「こういう伝えられるべき素晴らしい人物やその事績」というような事柄が色々と取上げられているのが凄く好い。更に「こういう吃驚の事実が記された史料も…」という話題も挙がっている。 学校で学ぶ歴史に関しては、「とりあえず面倒でつまらない」というイメージも実は強いのかもしれないが、実は歴史の中には個人の人生や社会の在り方を想う様々な材料が詰まっているのだと思う。そんなことを改めて思い起こす本だ。 他方で少し思った。 “未来”というモノは、“現在”を「如何するのか?」で多少変わる場合も多く在る。対して“過去”は変わらない。その“過去”がもたらした結果を“未来”へ如何に繋げるのかというのが“現在”ということなのかもしれない。 が…“過去”を「無かったこと」というように扱う、または扱おうとするような事例が、何となく増えていないだろうか?本書を読み進める中でそういうような想いも何となく沸き上がった… 何れにしても、なかなかに興味深い一冊で「愉しい読書の時間」を過ごすことが叶った。
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