死者と霊性 の商品レビュー
この本はコロナ禍における今だからこそ非常に重要なものとなっています。 私たちは病や死をどう考えていけばいいのだろうか。目に見えない存在に対してどう向き合うべきなのか。科学や合理性を盲信するあまり大事なことを見失ってはいないだろうか。 そのようなことを考えさせられる1冊です。
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座談会形式。それぞれの分野の一級の知性が闊達に、問題意識を提示していく。その中で、わたしの固定概念が崩れていく。読み終えて、生と死を合わせて、この世界に対して畏敬の念さえ抱いた。 若松さんの言葉にはハッとする。 「東日本大震災で宗教は言葉を失ってしまった」 「神智学協会の方向は...
座談会形式。それぞれの分野の一級の知性が闊達に、問題意識を提示していく。その中で、わたしの固定概念が崩れていく。読み終えて、生と死を合わせて、この世界に対して畏敬の念さえ抱いた。 若松さんの言葉にはハッとする。 「東日本大震災で宗教は言葉を失ってしまった」 「神智学協会の方向は、謎が明らかになっていく方向。エックハルトは、人間にとって謎が深まっていく方向。原理主義は謎がなくなる状態。」
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末木文美士(仏教学・日本思想史)、中島隆博(中国哲学・世界哲学)、若松英輔(批評家・随筆家)、安藤礼二(文芸評論家)、中島岳志(政治学・日本思想史)の五人による座談会を中心に据えて、末木によるイントロダクション、座談会のあとに四人の小文を収録したもの。カッコ内の記載は、巻末の著者...
末木文美士(仏教学・日本思想史)、中島隆博(中国哲学・世界哲学)、若松英輔(批評家・随筆家)、安藤礼二(文芸評論家)、中島岳志(政治学・日本思想史)の五人による座談会を中心に据えて、末木によるイントロダクション、座談会のあとに四人の小文を収録したもの。カッコ内の記載は、巻末の著者紹介による。 この本の中でも人文学の地位低下を嘆くところがあったが、遺憾ながら、この本を通読するとそれもやむを得ないのではないかと思えてしまう。 ここで五人が述べていることは、乱暴にまとめれば、世界中の人たちについて、誰それはこう書いている、誰それはこう考えていたという薀蓄を衒学的に語り合っているに過ぎない。そこから、次に何を考えるのか、その先の端緒すら示し得ていない。 入り口でアガンベンを持ち出し、それを肯定的に受け止めて、そこから話を展開するところで、強い違和感を感じる。 せっかく中島隆博がハイデガー的な死の把握を自分の死を死ぬという固有性を批判した(52頁)のに、そこからの展開が見当たらない。 中島岳志が繰り返し持ち出す柳田国男の「祖先の話」も「ご先祖様になりたい男」は故郷新潟を離れ、東京で生計を営んだ人の、ある意味ご先祖から離れた異国の地で滅びようとすることの悔悟に過ぎないのではないか。 祖先崇拝の念は、現代日本にも残っているが、その象徴としての墓は、移動の激しい都市住民にとっては「墓じまい」がいまや大きな問題となっている。 戦中・戦後の大量の死を目の前にした世代は、「生きている者優先」を徹底して、高度成長をもたらした。そして飽食の時代を迎えてなお、若者から老人まで、死んで楽になる自殺率の高い日本に、この五人が延々と語り続けた思想・宗教はどんな救いをもたらすことができるのだろうか? すごく残念な本だった。
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死者とどう向き合っていけばよいのか、そのヒントが得られるのではないかと期待して読み始めたけれど、私にはちょっと難しかった。結局いつも聴いている中島岳志さんの話がよくわかっただけで、他の方の言うことはあまり理解できなかった。というか、話があちこちに散らばっていて、深まっていかないよ...
死者とどう向き合っていけばよいのか、そのヒントが得られるのではないかと期待して読み始めたけれど、私にはちょっと難しかった。結局いつも聴いている中島岳志さんの話がよくわかっただけで、他の方の言うことはあまり理解できなかった。というか、話があちこちに散らばっていて、深まっていかないような気がした。それぞれが、それぞれで知っていること、勉強していることを披露しているだけのように聞こえた。たとえば神智学からシュタイナーにいたるところなど、もっとくわしく話してほしかった。全然知らない話なので。南方熊楠も折口信夫も柳田國男も鈴木大拙も西田幾多郎も井筒俊彦もみんな若いころ読もうとしたが結局お手上げで、何も残らないままできている。それを、なんとか一般の人間にもわかる形で、これらの人たちが残してきた書物から、いま、死に方や生き方、考え方にどう生かしていけるのかを話してほしいと思う。「横の会」の成果物としてまた次の本を企画されるのであれば、よろしくお願いします。今回の本の中で1ヶ所だけ気になっていることがある。それは若松さんが話されていたと思うが、死者は生者の記憶とは関係なく存在しているということである。私は、人の記憶に残っている限りは死者は存在し続けると思っていたので意外であった。たとえば、私の両親は2年前に立て続けに亡くなったが、子ども(私)たちや孫たちが思い出して、何回忌とかで集まってくれる間は、この世に、たぶんあまねく、つまりどこにいても呼べば会えるような形で存在し続けるのだと思っている。けれど、記憶する人がいなくなれば、そこで二度目の死を迎えるのではないのだろうか。若松さんが、どういう意味合いで、死者は存在し続けるとおっしゃったのかが知りたい。わかりやすい続編を期待しています。
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