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ヒロシマの空白 被爆75年 の商品レビュー

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2023/08/13

8月6日、原水禁世界大会に参加する機会があり、16年ぶり、個人旅行としては10年ぶりに広島平和記念公園を訪れた。原爆ドームと並ぶ被災建物であるレストハウスを、修復後初めて訪れた。平和公園になる前の旧中島地区の町並みの精巧なジオラマが展示されている。また、資料館北側に被災遺構展示館...

8月6日、原水禁世界大会に参加する機会があり、16年ぶり、個人旅行としては10年ぶりに広島平和記念公園を訪れた。原爆ドームと並ぶ被災建物であるレストハウスを、修復後初めて訪れた。平和公園になる前の旧中島地区の町並みの精巧なジオラマが展示されている。また、資料館北側に被災遺構展示館が昨年、建てられていた。考古学見地から、街の溝や畳表などをそのまま展示している。暫く来ないだけで、平和公園は様変わりしていた。 集会では一様に、今年広島で開かれたG7が「核抑止力」論を公然と宣言したことに、怒りが集中した。非難ではない。「怒り」である。因みに朝の式典で、首相のいる前で広島市長の挨拶も「核抑止力は破綻している」と苦言を呈した。 レストハウスで手に入れた本書には、過去のことではない、新たに未解明だった原爆被害を明らかにしている。記録にない死者、身元不明の遺骨、原爆遺構…。 表紙写真は、東西に走る本通り商店街から一本中に入った「鈴木美髪店」家族の写真(1938年の撮影)。店は6人家族だったが被爆で全滅した。奥に商店街沿いの鴻池銀行(最近まで山口銀行として使われていたが、02年解体)が見える。被爆時小6だった長男英昭くん(右)、小3の長女公子さん(左)は袋町小で被爆、長男が長女をおぶって救護所へ駆け込むが親類を探して出てゆく。公子さんはその後行方不明、英昭くんも1週間後に亡くなった。父親六郎さんは収容先で死去、次男護(3)、次女昭子(1)は、店の焼け跡で骨になっていた。妻フジエさん(右)は、重症を負いながら親類の家にたどり着くも全員死亡と聞いて井戸に身を投げた。約3千枚、10冊のアルバムが親類宅に写真疎開をしていたため残った。原爆資料館が2014年に一部提供された画像データをもとに展示を企画、大きな反響を呼んだ。 この10年だけでも、在外外国人、黒い雨訴訟、被爆二世などへの被爆者援護法の適用枠が不十分ながら広がった、新たな遺骨発掘、名前の判明、記録の発掘そして保存が進んだ。この連載(19.11-20.7)を担った中国新聞社も、社員の1/3が死亡したという。初心忘れることなく、これからも被災者の側に立って報道をして欲しいと思う。

Posted byブクログ

2021/08/07

中国新聞社が2019年11月から2020年8月まで連載した「ヒロシマの空白 被爆75年」を再編集した本。 空白とは75年経っても埋めきれない原爆によって失われた命の記憶だ。 例えば、1945年8月6日に原爆が投下されて被爆し、45年末までに死亡した犠牲者の数は14万人±1万人と...

中国新聞社が2019年11月から2020年8月まで連載した「ヒロシマの空白 被爆75年」を再編集した本。 空白とは75年経っても埋めきれない原爆によって失われた命の記憶だ。 例えば、1945年8月6日に原爆が投下されて被爆し、45年末までに死亡した犠牲者の数は14万人±1万人と推定されている。ただ、それはあくまでも推定にしか過ぎない。その後行われた原爆被爆者動態調査で氏名が特定された人は8万69025人に過ぎない。 本当の原爆被害の実態はつかみきれていないのだ。 一方で生き残った人たちはどうか。被爆者である事を隠す人もいれば、被爆の事実を「証明」できないために被爆者手帳を取れなかったり、生まれ故郷の朝鮮半島に戻ったり、海外に移住したりで被爆者としての認定から漏れてきた人たちもいる。 最近の「黒い雨」訴訟をとってもそうだが、国の消極的な対応の中で時間だけが過ぎ、当事者の死とともに事実が薄れて消えて、空白となってしまうのだ。 この中国新聞社の取材活動の中で特記すべき事は、生き残った遺族と、その子孫から被爆する前の、焦土と化す前の広島の街の様子を捉えた写真を多数提供を受けている事だ。 原爆という最悪の兵器によって奪われた命、街角、記憶、それらの空白が白黒の写真によって切り取られ、残されている。

Posted byブクログ