伊能忠敬の日本地図 の商品レビュー
おそらく一番詳しい伊能忠敬と伊能地図に関する解説書。 1929年に完全に置き換わるまで使われ続けた地図。 1821年完成、大日本沿海輿地全図、大図214枚、中図8枚、小図3枚。 最初は伊能忠敬が個人で始めた測量だったがだんだんと認められ幕府の事業となった。相当な苦労と犠牲があって...
おそらく一番詳しい伊能忠敬と伊能地図に関する解説書。 1929年に完全に置き換わるまで使われ続けた地図。 1821年完成、大日本沿海輿地全図、大図214枚、中図8枚、小図3枚。 最初は伊能忠敬が個人で始めた測量だったがだんだんと認められ幕府の事業となった。相当な苦労と犠牲があって作られたもの。伊能忠敬は1818年突然死去したが地図を上程するまで死は伏せられ、伊能の名前で上程された。 第1次測量1800年、蝦夷地。ほぼ私費で歩測。北海道の根室半島の別海まで。 第2次測量1801年、本州東岸、伊豆半島から下北半島まで。間縄での測量、緯度1度=28.2里と算定。 第3次測量1802年、羽越。青森の竜飛岬から新潟の直江津まで。費用をほぼ全額支給される準幕府事業に昇格。 第4次測量1803年、東海北陸。沼津から熱田、敦賀、能登半島、佐渡など。 第5次測量1805年、畿内・中国地方。忠敬は小普請組に登用され幕府の直轄事業に。途中忠敬はおこりにかかり停滞、隊規も乱れる。 第6次測量1808年、四国・大和路 第7-8次測量1809年九州、1811年屋久島・種子島・五島列島。副隊長の坂部がチフスで死亡。風待ち等でかなり日数がかかった。 第9-10次測量1815年、伊豆七島と江戸府内
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