人類学者は異文化をどう体験したか の商品レビュー
ラトビア人の人類学者が日本に来た時に、今まで異文化だと捉えていた東京という景観を見て、東京の景観が異文化なのではなく、この景観に対して自分が他者であるという認識をしたのだという。 私もそうだが、なにか自分とは違う文化や考え方に触れる時、それは「異」であると無意識的に捉えがちである...
ラトビア人の人類学者が日本に来た時に、今まで異文化だと捉えていた東京という景観を見て、東京の景観が異文化なのではなく、この景観に対して自分が他者であるという認識をしたのだという。 私もそうだが、なにか自分とは違う文化や考え方に触れる時、それは「異」であると無意識的に捉えがちである。 しかし、その考え方では得られない感覚や学びがあると思う。だからこそ、自分が他者であるという観点はすごく大切なんじゃないかと思った。 もう1つは、言語に関してである。言語は初めはただの音でしかないが、馴染んでくると言葉になる。 日本では、日常的に使われる「お疲れ様」「宜しく」「お世話になります」などという言葉は、ラトビアではその言葉・概念が存在しないのだという。 ラトビアの人類学者は、日本に来た時に知らない概念の言葉に驚いたようであるが、それが自分の身体に馴染んでいくと、ラトビアに戻ったときに「宜しく」ということを伝えたくても、それを表す言葉がないというパラドックスに陥ったと言う。 彼は新しく得た感情などを表現する際に母語だけでは表現できないことがあると言っていた。 それを読んで、今まで英語とか他言語を学ぶことに全く魅力を感じておらず、日本人なのだから日本語だけでいいではないかと考えていた私であったが、なるほど、他言語を学ぶのにはそのような意味があったのかと腑に落ちたのである。 余裕ができれば、きちんと英語を学び直したいかもしれないという気持ちが生まれた。
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